帰化騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 20:20 UTC 版)
カルーはコートジボワールの出身だが、オランダ代表でのプレーを望んでおり、帰化の申請をしていた。A代表のマルコ・ファン・バステン監督もカルーを絶賛し、「カルーはオランダ代表としてプレーするべきだ」と発言していて何度もカルーのプレイを視察に来ていた。カルー自身もコートジボワール代表のオファーを断り続け(A代表の出場歴がある選手は他の国のA代表としては出場できない。ただし、年齢制限のある代表しか出場歴がない場合は、他のA代表としての出場は可能)あとは移民局からの判断を待つだけとなる[要出典]。 しかし移民に寛容な政策をとってきたオランダだが、EU統合後は移民に対して厳しい処置を取るようになってきていた。そんな中で、サッカーにはあまり興味のない女性大臣のリタ・フェルドンクが、カルーの帰化を簡単に認めなかった。通常なら帰化には最低でも5年の月日が必要だが、この時点でカルーは2年しかオランダでのプレイ経験がなかった。ファン・バステン監督も公式に反論し「申請が通れば、必ず代表に招集する」とまで言い、一時は再検討となったが、結局帰化は認められず、2006 FIFAワールドカップの出場はならなかった[要出典]。
※この「帰化騒動」の解説は、「サロモン・カルー」の解説の一部です。
「帰化騒動」を含む「サロモン・カルー」の記事については、「サロモン・カルー」の概要を参照ください。
- 帰化騒動のページへのリンク