溶解精錬者
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「フランクリン・ピール」の記事における「溶解精錬者」の解説
1797年からフィラデルフィア造幣所の溶解精錬者の地位はジョセフ・クラウドが持っていた。ワシントンD.C.の政権が指名したクラウドは、1836年始めの日付で辞任した。1835年12月21日、アンドリュー・ジャクソン大統領から、ピールがジョセフ・クラウドの後任に指名され、1836年1月5日に上院が確認した。 ピールは溶解精錬者の地位に就くときに、ヨーロッパで見てきたものに基づいて推薦していた変更を実行した。さらに造幣所の貨幣鋳造部で機械化を望んだ。その部門長は貨幣鋳造主任のアダム・エックフェルトであり、その息子のジェイコブはフィラデルフィア造幣所の試金者だった。アダム・エックフェルトは1792年にアメリカ合衆国最初の貨幣鋳造に貢献し、1814年からその職にあった。エックフェルトはピールが推奨すること全てを採用することを逡巡し、ピールの甥である技師のジョージ・セラーズに、「もしピール氏が本格的にやれば、全てのものをひっくり返すことだろう…かれはすこしでも良いものを望み、我々が新しく出発するなら、疑いもなくそれを実行するだろう」と告げていた。エックフェルトの予防線にも拘らず改善が進行して行くと、エックフェルトはその価値を認めて、より熱心になり、ピールがフランスで見た後に輸入したコンタミンの旋盤で労働時間が短縮されることに注目した。フィラデルフィア造幣所からの生産量が増加すると、ピールは硬貨地板や硬貨を素早く積み上げることができる積み上げ箱を発明し、勘定板を発明して事務員の仕事のスピードを上げた。この勘定板は、1934年に造幣所が機械式勘定機を導入したときまで使われ続けた。 ピールが溶解精錬者として導入した革新の1つは、分離のときに塩を使うことであり、それで硝酸に溶解した銀を回収し、金塊の純度が高まることになった。それ以前は銅を用いてのみ可能だったが、危険で攻撃的な蒸気を発生させていた。食塩(塩化ナトリウム)は硝酸に溶け、塩化銀を沈殿させ、亜鉛と硫酸を使って金属銀を回収できた。これが分離工程をさらに精巧にさせた。パリ造幣局の支配人ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックが、容易で正確に銀を試金する方法として、初めて塩溶液を用いた。1873年の上院報告書では、ピールがこの製法を進化させたことについて「彼の天才、事業、および高い業績に対する証明」と表現していた。1836年、上院が品質を落とした銀すなわちビロンで2セント貨を要求したときに、パターソンはピールに、第三代彫り師のクリスチャン・ゴブレヒトと協力し、貨幣が母材を用いれば容易に偽造できることを示すためにパターン・コインを打たせた。 1835年、連邦議会はノースカロライナ州シャーロット、ジョージア州ダロネガ、ルイジアナ州ニューオーリンズに造幣局の支所を設立し、アメリカの貨幣を打たせ、金が採掘されあるいは南部を通して国内に入ることを承認した。近くには豊富な金鉱があるにも拘らず、シャーロットとダロネガは技術的訓練を積んだ人材が居ない地域にあった。その結果訓練された人材はフィラデルフィアから派遣される必要があった。新しい建物が建設されることになった。1837年8月、造幣局支配人のパターソンは、ダロネガの建物の一部が崩壊したことなど、両所から問題が起きた知らせを受けた。パターソンは財務長官のリーヴァイ・ウッドベリーに「金の造幣所両所に信頼でき技術のある人材を送り、これまでの誤りを正すよう指示を与えること。わが溶解精錬者のピール氏以外この任務に当たれる人材をしらない」と提案する文書を送った。ウッドベリーがこれに合意し、パターソンに「ピール氏を派遣する権限を与えられた」と知らせた。 ピールは娘のアンナを伴い、1837年9月23日にシャーロットに到着した。ピールは必要な装置がまだ到着していないことが分かった。それが無ければ何もできなかった。ピールは調査を命じ、パターソンには、自分が、「唯一活動的な存在は豚である」街で「この創造の辛い終点」の「罠に掛かって」いると報告した。ピールはシャーロット造幣所が金塊を頼っている鉱山を訪れることに時間を費やした。パターソンにはダロネガの後にニューオーリンズにも行って改善を行うと提案し、それに対してパターソンは「貴方の提案した長期の遅れに私の『拒否権』を行使する」ものであり、「貴方がフィラデルフィアに居ることは補うことができない」と返事した。10月27日、未着だった装置の大半がシャーロットに到着し、ピールはそこでの任務を完了させることができ、11月10日にはダロネガに向かった。原始的な山岳路を通る困難な旅の後、フランクリン・ピールとアンナは11月15日に到着した。できたばかりのダロネガ造幣所で問題点を評価した後、ピールはパターソンに次のような報告書を送った。 造幣局組織の労働者はお粗末なものである。文書は3度も誤字で埋められ、意図的な悪い構造にされる。その最初で最大のものは、フィラデルフィアに遡り、「粘土」がない国でれんが造りの建物を「注文し」、レンガ作りに使われる材料は金の地域の「赤土」であり、「分解された花崗岩」が「へま」の卒業証書に確かに値する者によってレンガに作られる 。 それでもピールは、連邦議会が建物建設のために別の予算を承認する可能性はないと見なしたので、建物の建設継続を推薦した。ピールは11月末にダロネガを発った。北に向かう途中で、バージニア州を通る列車が脱線したときに、アンナが軽傷を負った。1837年12月23日、ピールはフィラデルフィア造幣所の仕事場に戻った。 ロジャー・バーデットは1830年代にピールが造幣局に与えた影響について次のように論じている。 1835年半ば、フィラデルフィアの技師で機械製作者のベンジャミン・フランクリン・ピールが、パリのソネリエ、カールスルーエのウールホーン、ロンドンのボールトンのプレス機に付き物だった複雑さを排除し、伝統的な付属物を取り去った。これら偉大な造幣局に使われる装置の基本的原則に従い、それをアメリカの効率追求版で生かした。装置は頑丈で容易に修理できなければならない。北アメリカが遥か遠くにあることから、各造幣局の機械分野の専門家は座って何かが壊れるのを待つのが不可能になった。1839年の造幣局は4つの造幣所で金と銀を加工するために類似した方法に固執するしかなく、たとえこれらの方法が最も効率的ではなく、安くはないとしてでもある。装置と同様にピールは王立造幣局やパリ造幣局から、うまく動く製法を借りてきて、アメリカの造幣局では問題のある機能を除いたことを、見て取ることができる。
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