フィオレンツォ・マーニとは? わかりやすく解説

フィオレンツォ・マーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/24 15:18 UTC 版)

フィオレンツォ・マーニ(Fiorenzo Magni、1920年12月7日 - 2012年10月19日)は、イタリアヴァイアーノ出身の元自転車競技選手。

経歴

自転車競技をスタートさせたのは1936年1939年には世界自転車選手権のアマ・ロードにも出場した。

1941年にビアンキチームと契約してプロへ転向。

1948年ジロ・デ・イタリアにおいて、エンツォ・チェッキに対してわずか11秒の差ながらも退けて総合優勝を達成。

1949年ツール・ド・フランス初出場。第10ステージから第15ステージまで総合首位に立った。一方、このツールでは、マーニはジーノ・バルタリファウスト・コッピの2人のエースを要するイタリアチーム(当時、ツールは国・地域別対抗戦方式を採っていた)とは別チームである、カデット・イタリアチームの一員として参加していたが、第16ステージでバルタリとコッピの2人に完敗し、結局総合6位に終わった。

1950年のツールではイタリアナショナルチームの一員として参加したが、第11ステージにおいて総合首位に躍り出ながらも、同ステージにおいてバルタリが、フランスジャン・ロビックを転倒させたことに対して、翌、第12ステージにおいて観客の怒号などがイタリアチームに集中的に浴びせられたことが原因で、同ステージ途中でイタリアチーム全員がリタイアを余儀なくされる羽目になった。その後マーニは、ツールでは度々総合ベスト10入りを果たしたものの、総合優勝は一度も果たすことはできなかった。

一方、ジロにおいては、1951年に、リック・バンステーンベルヘンと終盤まで激しく総合首位争いを演じたが、最後はバンステーンベルヘンを下して2度目の制覇。

また1955年には、第20ステージでガストネ・ネンチーニから総合首位を奪い、最後はわずか13秒差ながらも、猛追してきたコッピを退けて3度目の総合優勝を飾った。

また、ロンド・ファン・フラーンデレンでは同レース初の3連覇(1949年~1951年)を果たしたが、2012年現在、マーニ以外に同レース3連覇達成者は一人もいない。

1956年に現役を引退。

引退後はプロ自転車連盟の会長等を歴任した。また、2004年には、カルロ・アツェリオ・チャンピ大統領から、長年に亘る自転車競技への尽力を労う意味で、勲章が授与された。

2012年10月19日死去。91歳没[1][2]

主な実績

1942年

1947年

1948年

1949年

1950年

1951年

1952年

1953年

1954年

  • ジロ・ディ・トスカーナ 優勝
  • ミラノ〜モデーナ 優勝
  • 国内選手権・ロードレース 優勝
  • ジロ・デ・イタリア 総合2位

1955年

  • ジロ・デ・イタリア 総合優勝、区間1勝(第2)
  • ブエルタ・ア・エスパーニャ ポイント賞、区間3勝(第7、13、15)
  • ジロ・ディ・ロマーニャ 優勝

1956年

脚注

  1. ^ Fiorenzo Magni dies at the age of 91 - cyclingnews.com 10月19日付(英語)
  2. ^ E' morto Fiorenzo Magni Volto moderno del ciclismo eroico - ガゼッタ・デロ・スポルト 2012年10月19日付(イタリア語)

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