フィオレラ・ボニセジとは? わかりやすく解説

フィオレラ・ボニセジ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/18 18:36 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

フィオレラ・ボニセジFiorella Bonicelli, 1951年12月21日 - )は、ウルグアイの元女子プロテニス選手。ペルーリマに生まれる。全仏オープン1975年の混合ダブルス部門、1976年の女子ダブルス部門に優勝し、当地のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった選手である。WTAツアー大会では、シングルスの優勝はなかったが(準優勝2度)、ダブルスで1976年全仏オープンを含む2勝を挙げた。

来歴

ボニセジはペルーの首都リマで生まれたが、人生の大半をウルグアイの首都モンテビデオで過ごしてきた。9歳からテニスを始め、1968年からウルグアイの第一人者になる。1972年、ウルグアイは女子テニス国別対抗戦「フェデレーション・カップ」に初参加を果たし、ボニセジは当地のエースとして活躍し始める。フェデレーション杯初参加から3年後の1975年、ボニセジは全仏オープンの混合ダブルスでトーマス・コッホ(ブラジル)とペアを組み、決勝でハイメ・フィヨル(チリ)&パム・ティーガーデン(アメリカ)組を 6-4, 7-6 で破って初優勝を果たした。

1976年、ボニセジは全仏オープンで女子ダブルス優勝を達成した。パートナーは地元フランスのゲイル・シェリフと組み、キャスリーン・ハーター(アメリカ)&ヘルガ・マストホフ西ドイツ)組を 6-4, 1-6, 6-3 で破った。こうしてボニセジは、全仏オープンで2つのタイトルを獲得し、ウルグアイのテニス選手として最初の4大大会優勝者になった。

シングルスでのボニセジは、1978年全仏オープンのベスト8進出が自己最高成績である。ウィンブルドンでは1974年全米オープンでは1972年1977年の2度3回戦進出があった。1978年ウィンブルドンの1回戦でフランソワーズ・デュールに敗れた試合を最後に、ボニセジは26歳でテニス界の第一線から退いた。それから8年後の1986年、もう1度フェデレーションカップに参加したことがある。

フィオレラ・ボニセジの1976年全仏女子ダブルス優勝から32年後、2008年全仏オープンパブロ・クエバスが男子ダブルス優勝者になり、ウルグアイの男子テニス選手として初めてのグランドスラム・タイトルを獲得した。

参考文献

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フィオレラ・ボニセジ」の関連用語

フィオレラ・ボニセジのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フィオレラ・ボニセジのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフィオレラ・ボニセジ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS