第二次ラティウム戦争とは? わかりやすく解説

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第二次ラティウム戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 20:00 UTC 版)

ラティウム戦争」の記事における「第二次ラティウム戦争」の解説

ローマから自立するためのラティウム人たちの圧力戦争開始大きな原動力であった紀元前340年ローマラティウム同盟対等条件一つ国家として構成されるように、ラティウム同盟側はローマ元老院使者派遣した過去ローマラティウム同盟盟主であった時期もあったが、ローマ元老院ラティウム同盟側の要望対等条件での国家連合構想)の受け入れ拒否したため、それを受けたラティウム同盟ローマへ宣戦布告し戦争開始された。 ラティウム人とカンパニア人の同盟軍との戦争開始前、ローマサムニウム人戦争第一次サムニウム戦争)を行っていたが、ラティウム戦争開始が始まる前にサムニウム人とは和議締結していた(紀元前341年)。 ラティウム人の中でラウレンテス族(Laurentes)とカンバニア地方エクィテス騎士階級)だけは、パエリグニ族(Paeligni)の支援受けたローマ人側に加勢した。 ラティウム軍はサムニウム地方入りローマ軍ラティウム軍を避けながらフキネ湖(Fucine Lake)まで移動してカンパニア地方領土侵入してウェスウィウス山近郊ラティウム同盟軍およびカンパニア軍へ攻撃仕掛けた。 このウェスウィウス戦いで、その年の執政官ティトゥス・マンリウス・インペリオスス・トルクァトゥスプブリウス・デキウス・ムス率いローマ軍ラティウム軍を撃破したローマ側情報によると、マンリウスは自らの指示に従わなかった息子軍規により処刑して軍を引き締め一方のデキウス・ムスはローマ軍勝利のために自らの人生を神に捧げた伝わっている。 紀元前339年、マンリウスはトリファヌムの戦い現在のカゼルタ近郊)で再びラティウム軍を撃破した2度敗戦カンパニア地方からラティウム軍は撤退して自らの勢力地盤であるラティウム地方へと移動したが、ローマ軍抵抗する十分な戦力持っていなかった。敗北したラティウム人たちは、ローマ強大な勢力認めざるを得なかった。幾つかのラティウム都市ローマ化され、他の都市ローマ行政官受入れたり、ローマ植民市になっていった。 戦争ラティウム同盟解体と、ラティウム同盟ローマ影響下に入る結果となり、一方でラティウム同盟ローマ市民権とは別な形の権利ラテン市民権付与されることとなった。 なお、ラティウム戦争終結から約10年後にサムニウム人との戦争再度勃発することとなった

※この「第二次ラティウム戦争」の解説は、「ラティウム戦争」の解説の一部です。
「第二次ラティウム戦争」を含む「ラティウム戦争」の記事については、「ラティウム戦争」の概要を参照ください。

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