四度目の皇后擁立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 22:42 UTC 版)
同年8月、長安を統治する司馬顒は司馬穎を援護する為、将軍張方を洛陽へ侵攻させた。張方は洛陽を攻め落として自らの統治下に置くと、羊献容を皇后から廃立した。8月、都督幽州諸軍事王浚・東嬴公司馬騰が司馬穎討伐を掲げて決起すると、司馬穎は鄴の放棄を決断し、恵帝を伴って洛陽へ逃走して張方の庇護下に入った。 304年11月、張方は恵帝を引き連れて長安への遷都を強行した。だが、洛陽には留台(皇帝が都を離れた際、旧都に設置される政治機構)が置かれ、多くの朝臣が洛陽に留まった。その為、朝廷の機能は長安と洛陽に分裂した。洛陽朝廷の意向により、羊献容は四度皇后に立てられた。 305年4月、長安に帰還した張方は洛陽朝廷へ命を下し、羊献容を廃立して金墉城に監禁した。
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