前趙から離反
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326年12月、前趙の襲来を恐れ、将軍宋輯・魏纂に将兵を率いさせて隴西・南安の民2千家余りを姑臧に移した。また、成漢と修好を結ぶため、使者を成都へ派遣した。この時、書を送って成漢皇帝李雄へ帝号を廃して東晋に称藩するよう勧めた。李雄は返書を送り「我は以前士大夫に推されてこのような身分となったが、帝王の心など持ち合わせてはいない。進んでは晋室の元功の臣となり、退いては共に守藩の将となり、賊を討伐して帝宇を広げたいと願っている。だが、晋室は次第に衰えて徳声も振るわず、東に移って早幾年月が過ぎてしまった。今、貴殿からの書を受け取り、この思いを隠しておく事も無くなった。遠くは楚漢において義帝を尊崇することを知り、春秋の義においてこれより重要なことは無いであろう」と語ると、張駿はこの言葉を重んじてこれ以降も使者を往来させた。 327年5月、前趙が後趙に大敗したとの報が入ると、張駿は前趙より受けた官爵を廃し、再び東晋の大将軍・涼州牧を自称した。また、武威郡太守竇濤・金城郡太守張閬・武興郡太守辛岩・揚烈将軍宋輯らへ数万の兵を与え、東へ向かって韓璞と合流して前趙の秦州諸郡を攻略するよう命じた。劉曜は子の南陽王劉胤を派遣して迎撃を命じ、狄道城に駐屯させた。枹罕護軍辛晏は張駿へ救援を要請した。 7月、張駿は韓璞・辛岩に枹罕を救援させ、韓璞は進んで沃干嶺に拠った。辛岩は速戦を主張したが、韓璞は前趙の背後に後趙がいる事から敵は長く戦を継続できないと判断し、持久戦の構えを取った。10月、70日余りに渡って対峙するうちに軍糧が底を尽いたので、韓璞は辛岩を派遣して金城から食糧を輸送させようとした。劉胤はこれを聞くと冠軍将軍呼延那奚に親御郎(公卿以下の子弟で勇幹な者を集めて構成された部隊)三千を与えて糧道を絶たせ、劉胤自らは騎兵3千率いて沃干嶺を襲撃して辛岩を破った。さらに韓璞の陣営に逼迫すると、韓璞軍は潰走してしまった。劉胤は勝ちに乗じて追撃し、河を渡ると令居を攻略し、2万を討ち取った。さらに振武まで進出すると、河西の民は大いに動揺し、張閬・辛晏は数万の兵を従えて前趙に降伏した。こうして張駿は河南の地を失陥し、皇甫該を派遣して前趙軍を防がせると共に、領内に大赦を下した。韓璞が面縛して自らの罪を謝罪すると、張駿は「これは孤の罪であり、将軍がどうして辱じることがあろうか」と述べ、一切罪に問わなかった。 328年8月、劉曜が自ら大軍を率いて後趙領の洛陽へ侵攻すると、張駿はこの隙に戦備を整えて長安を襲撃しようと目論んだが、理曹郎中索詢は「曜は東征したとはいえども、その子である胤(劉胤)がなお長安を守っております。険阻にして路は遠く、そのうえ主人が守るには甚だ容易です。胤がもし軽騎をもって氐羌を頼みとして我らを拒んだならば、どこから突撃してくるか測るのは難しいでしょう。彼らがもし東征を中止して我らの迎撃に出れば、逆に我らが侵攻を受けるでしょう。近頃はしばしば出撃しているために、外では民は飢餓によりやせ衰え、内では物資が欠乏して失われて余裕もありません。これではどうして殿下が民を子のように愛するなどとと謂う事が出来ましょうか」と諫めた。張駿は「我はいつも、忠言が献じられずに面従腹背によって我が政教の誤りを正す者がいない事を憂えていた。然るに、卿は忠言を尽くして諫めてくれた。これは深く我の願う所である」と述べて出陣を中止し、羊酒をもって索詢を礼遇した。 9月、雨が続いたことから領内に大赦を下した。 この時期、西域諸国が汗血馬・火浣布・犎牛・孔雀・巨象・諸々の珍宝二百品余りを献上してきた。
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