前趙での出生から石虎の后となるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/02 21:26 UTC 版)
「劉皇后 (石虎)」の記事における「前趙での出生から石虎の后となるまで」の解説
前趙で劉曜の皇帝即位と前後して生まれ、安定公主に封じられた。容姿ははなはだ美しかったという。 328年12月、劉曜は洛陽において後趙に敗れ、捕らえられて殺害された。皇太子劉煕や南陽王劉胤は長安から撤退して上邽に逃れ、安定公主もまたこれに従った。 329年9月、中山公石虎が上邽を攻め落とし、前趙を完全に滅ぼした。この時、安定公主は戎昭将軍張豺に捕らえられ、襄国に送られた。やがて、彼女は石虎により見初められ、妾として迎え入れられると、大いに寵愛を受けた。 339年、石虎の末子となる石世を生み、彼女自身は昭儀に立てられた。 348年8月、天王太子石宣が秦王石韜を殺害した罪により処刑された。この時、劉氏は石虎と共に中台に昇って処刑の様子を見物した。 9月、石宣誅殺に伴い、石虎は群臣と共に誰を新たな皇太子に立てるか議論を行った。当初は燕公石斌・彭城公石遵がその最有力候補となったが、劉氏を捕らえた張本人である張豺は、石世・劉氏を擁立して自らが輔政の任に就くことを目論んだ。彼の画策により、最終的に石世は皇太子に立てられ、劉氏は皇后に立てられた。
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