前趙を滅ぼす
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325年5月、前趙の将軍劉岳は後趙へ侵攻して盟津・石梁の2砦を攻め落とすと、金墉(洛陽の一角)へ進んで洛陽の守将である河東王石生を包囲した。また、前趙の鎮東将軍呼延謨もまた荊州・司州の兵を率い、崤澠から東へ進んだ。その為、石虎は歩騎兵併せて4万を率い、成皋関から石生の救援へ向かった。劉岳はこれを知ると陣を布いて迎え撃ち、両軍は洛西で衝突した。石虎は次第に優勢となって劉岳を石梁まで後退させると、塹壕を掘って柵を環状に並べ、劉岳軍を包囲して外からの救援も遮断した。包囲された劉岳軍は兵糧が底を突き、馬を殺して飢えを凌ぐ状態までになった。さらに石虎は呼延謨軍も撃ち破り、呼延謨の首級を挙げた。その後、前趙皇帝劉曜が自ら軍を率いて救援に到来すると、石虎は騎兵3万でその進路を阻んだが、配下の汲郡内史石聡が前趙の前軍将軍劉黒に八特坂において敗北を喫した。これにより劉曜は金谷まで進んだが、突如として前趙の兵士たちは石虎軍を恐れて動揺し、散り散りに逃亡してしまった。その為、劉曜は止む無く長安に戻った。6月、石虎は劉岳の陣営を攻め落とし、劉岳とその部下80人余り及び氐羌3000人余りを生け捕って襄国へと護送した。また、士卒9000人を生き埋めとした。 その後、石虎は并州に割拠する王騰を攻撃すると、これを撃破して王騰を捕らえた。戦後、王騰を処刑し、7000人余りの兵卒を穴埋めとした。この戦いによって、司州・兗州の全域を領有するようになり、徐州・豫州の淮河に臨む諸郡県は、全て石勒に帰順した。 326年10月、石勒は世子の石弘に鄴の統治を任せようと考えていたが、鄴は以前より石虎が守っている土地であり、彼は自らの勲功が重いので鄴を譲る考えは全く無かった。だが、石勒と右長史程遐の画策により、三台が修築されると石虎の家室は無理矢理移されてしまった。また、石弘には禁兵1万人が配され、石虎が統べていた54の陣営全てを任せられた。この一件で石虎は程遐を深く怨み、左右の者数10人に命じて夜に程遐の家を襲わせると、彼の妻娘を陵辱して衣物を略奪させたという。 327年12月、5千騎を率いて代の国境へ侵攻した。代王拓跋紇那は句注・陘北においてこれを迎え撃ったが、石虎はこれを破った。その為、拓跋紇那は大寧に遷都した。 328年7月、4万の兵を率いて軹関から西へ向かうと、前趙領の河東を攻撃した。これに50県を超える県が呼応し、石虎は易々と蒲坂まで軍を進めた。劉曜は自ら中外の水陸精鋭部隊を率い、蒲坂救援に向かった。劉曜が衛関から北へと渡河すると、その数が多い事から石虎は恐れて退却したが、劉曜より追撃を受けた。8月に入ると高候において追いつかれ、石虎軍は潰滅して養子の左積射将軍石瞻が戦死した。その屍は200里余りに渡って連なり、鹵獲された軍資はおびただしい数となった。石虎はかろうじて朝歌に逃げ込んだが、劉曜は大陽から渡河して一気に金墉(洛陽城内の西北角にある小城)を守る石生に攻撃を仕掛けると、千金堤を決壊させて水攻めにした。さらに滎陽郡太守尹矩・野王郡太守張進は劉曜に降伏したので、襄国に激震が走った。 11月、石勒は自ら歩兵騎兵合わせて4万を率いて洛陽の救援に向かい、石虎にも石門へ進軍するよう命じた。12月、後趙の諸軍が成皋へと集結すると、その数は歩兵6万、騎兵2万7千に上った。石虎は歩兵3万を率いて城北から西進し、劉曜の中軍に突撃した。石堪・石聡もまた各々精騎8千を率いて城西から北進し、劉曜軍の前鋒と西陽門で決戦を繰り広げた。さらに石勒自らも閶闔門から出撃し、南北から挟撃した。これらにより劉曜軍は潰滅し、劉曜は生け捕られて石勒の下に送られた。 329年1月、前趙皇太子劉煕らは劉曜が捕縛されたと知ると、長安から撤退して上邽に逃げ込んだ。石勒の命により、石虎は兵を率いてこれの追討に当たると、前趙の諸将は守備を放棄して逃亡したので、関中は騒乱に陥った。前趙の将軍蔣英と辛恕は数10万の兵を擁して長安に拠ると、使者を派遣して後趙に降伏した。 8月、前趙の南陽王劉胤と劉遵は数万の兵を率いて長安へ侵攻すると、隴東・武都・安定・新平・北地・扶風・始平諸郡の戎・夏はみな挙兵して劉胤に呼応した。劉胤が仲橋まで軍を進めると、石虎は騎兵2万を率いて迎撃に当たった。9月、両軍が義渠で激突すると、石虎は劉胤に大勝し、兵5000余りを討ち取った。劉胤が上邽へと敗走すると、石虎は勝利に乗じて追撃を掛け、道中では千里に渡って前趙兵の屍が転がった。勢いのままに上邽を攻め落とすと、劉煕を始め王公卿校以下3千人余りを捕らえ、これらを全て処刑した。さらに、台省の文武官、関東の流民、秦雍の豪族9000人余りを襄国へと移し、王公と5郡の屠各5000人余りを洛陽で生き埋めにした。また、主簿趙封に伝国の玉璽・金璽・太子玉璽を持たせ、石勒の下に送り届けさせた。こうして前趙は滅亡した。 同年、集木且羌が守る河西に侵攻し、これを陥落させた。これにより数万人を鹵獲し、秦隴の地を尽く平定した。前涼の君主張駿はこれに驚愕し、使者を派遣して後趙に称藩した。また、氐王の蒲洪・羌酋長の姚弋仲が石虎に降伏を願い出ると、石虎は蒲洪を監六夷軍事に、姚弋仲を六夷左都督に任じ、氐・羌の15万部落を司州・冀州に移した。
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