鄴の統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:12 UTC 版)
313年4月、石虎は鄴城の三台に攻め込むと、これを陥落させた。 同年、石勒は張賓へ「鄴は魏の旧都であり、我はここに都を再建しようと考えているのだが、風俗が乱れており賢人にこれを整備させる必要がある。誰が適任であろうか」と尋ねると、張賓は「かつて晋の東萊郡太守であった南陽の趙彭は、忠義の人にして品行方正で機敏な人物であり、補佐の任にあった時にその才覚を発揮しておりました。将軍がもし彼を任じましたならば、必ずや期待に沿うことでしょう」と答えた。その為、石勒は趙彭を召し出すと、魏郡太守に任じる旨を伝えた。だが、趙彭は石勒の前に出ると「この彭は、かつて晋室に仕えてその禄を食んでいた者です。その晋の宗廟は今や茂みとなり、川の氾濫が東に向かったように、江南へ移ってしまいました。犬馬というものは主を慕い、決して恩を忘れないそうです。明公(石勒)が天意によって事業を起こし、この彭に命を授けたとなれば、これほど光栄なことはありません。しかし、この栄誉を受けると言う事は、二君に仕える事に他ならず、この彭の望む所ではありません。恐らく、明公自身もこれを良くは思わないでしょう。もし、この彭の余命を自由にさせて頂けるのでしたら、明公による恵みであると考えます」と涙ながらに述べたため、石勒は黙り込んでしまった。そこに張賓が「将軍の神旗が通り過ぎた時、晋の貴族や官僚は保身に走り容易に忠節を曲げ、大義ではなく目先の利益で進退を考える者ばかりでした。ですが、趙彭のような賢人であれば、将軍が高祖となったとき、自ずと四公となり得ましょう。いわゆる君臣相知るということであります。これも将軍を不世の高祖とするために必要な事であり、だからこそ趙彭を何としてでも官吏とすべきなのです」と述べると、石勒は大いに喜んで「右侯の言は、我の心を得ている」と称賛した。そして、趙彭に安車駟馬を下賜して卿禄を与えると、子の趙明を参軍に任じた。
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