鄴・壷関攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:18 UTC 版)
同年9月、輔漢将軍石勒と共に鄴へ侵攻すると、漢軍の到来を恐れた守将の征北将軍和郁は城を捨てて逃走した。懐帝は豫州刺史裴憲を白馬に駐屯させ、王弥の攻勢に備えさせた。 11月、龍驤大将軍劉曜・輔漢将軍石勒・平北将軍劉霊らと共に魏郡・汲郡・頓丘郡へ侵攻し、50余りの砦を陥落させると、民を徴発して皆兵士として組み込んだ。 309年4月、王弥は侍中・都督青徐兗豫荊揚六州諸軍事・征東大将軍・青州牧に任じられ、楚王劉聡・前鋒都督石勒と共に壷関を攻めた。并州刺史劉琨は護軍黄粛・韓述を壷関救援の為に派遣したが、漢軍はいずれも撃破した。太傅司馬越は淮南内史王曠・安豊郡太守衛乾・将軍施融・曹超に迎撃を命じたが、王弥は高都・長平の間で彼らと戦ってこれを大破し、6・7割の兵を討ち取り、施融・曹超の首級を挙げた。さらに屯留・長子を攻略して1万9千人を殺害するか捕虜とすると、上党郡太守龐淳は壷関ごと漢に降伏した。 功績により東萊公に封じられた。
※この「鄴・壷関攻略」の解説は、「王弥」の解説の一部です。
「鄴・壷関攻略」を含む「王弥」の記事については、「王弥」の概要を参照ください。
- 鄴・壷関攻略のページへのリンク