鄴へ遷都
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11月、慕容儁は鄴へ遷都する事を決め、薊を出発した。 12月、鄴宮へ入ると、領内に大赦を下した。また、宮殿を修繕し、銅雀台を修復させた。 同月、廷尉監常煒は上言し、戦災によって苦しむ民の慰撫と、身分に捕らわれず才幹ある者を登用するよう訴えた。慕容儁は「常煒は徳を宿した碩儒(大儒)であり、刑法に練明している。その陳術する所を覧じると、良く採用するに足るものである、今、六合は安んじられておらず、喪乱も止んでいない。また、まさに優れた人材を探し求める時期であるが、未だ挙げる事が出来ていない。これらの条文を改めるかどうか、さらに多く議論させよう」と下書した。 同月、昌黎・遼東の2郡に慕容廆の廟を、范陽・燕の2郡に慕容皝の廟を建立しようと思い、護軍将軍平熙を領将作大匠に任じ、二廟の建立を監督させた。 同月、苻堅配下の平州刺史劉特は5千戸を伴って前燕に帰順した。 同月、河間郡出身の李黒が数千余りの衆を率いて反乱を起こし、州郡を荒らし回って棗強県令衛顔を殺害した。慕容儁は長楽郡太守傅顔に李黒討伐を命じると、傅顔はこれを撃ち破って李黒を討ち取った。 同月、呉王慕容垂を東夷校尉・平州刺史に任じ、遼東を鎮守させた。
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鄴へ遷都
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石虎は鄴に遷都を考えるようになると、尚書は進み出て太常を派遣してこの事を宗廟に告げさせるよう請うた。これに石虎は「古より大事があった時は必ず宗廟に告げ、社稷には列しなかったという。尚書はこれについてどうすべきか詳議するように」と答えた。これを受け、公卿は太尉を派遣して社稷にもこの事を告げるよう請うと、石虎はこれに従った。 9月、鄴への遷都を決行した。石虎が鄴宮に入った時、大雨が周辺に降り注いだので、石虎はこれを瑞祥と捉えて大喜びし、死刑以下に大赦を下した。また、尚方令解飛に司南車(指南車)を作らせると、その構造が精微である事を称えて関内侯を賜爵し、甚だ厚く賞を下賜した。 散騎常侍以上には軺軒(最も簡便な兵車)に乗る事を許可し、また王公が郊祀する際は副車に乗り、4匹の馬に引かせ、龍旗は8旒と定めた。また、朔望(毎月1日と15日)の朝会に即しては軺軒に乗る事とした。
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