鄱陽湖の戦いと掃討戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/22 08:48 UTC 版)
その翌年の1363年、陳友諒は兵60万を従えて、大船団で洪都府を攻撃する。いわゆる鄱陽湖の戦いである。陳友諒は洪都府を数百重に包囲した。鄧愈は洪都府の撫州門を守備した。陳友諒は自ら軍を指揮して城壁を破壊するが、鄧愈はこれを修復しつつ防戦にあたった。陳友諒軍の攻撃はますます激しくなり、3カ月にもおよんだ。その後、ようやく朱元璋が援軍にかけつけ、陳友諒軍を破り、さらに敵の本拠地武昌まで落とした。 鄧愈は鄱陽湖南部にある旧陳領の平定を命じられた。鄧克明の弟の鄧志清が兵2万を率いて永豊(江西省吉安市永豊県)を守備していたが、鄧愈はこれを撃破、将軍級の武将50余名を捕虜とした。さらに常遇春に従って沙坑(江西省吉安市新幹県七琴鎮沙坑村)・麻嶺(江西省撫州市南城県)にある敵拠点を平定、さらに兵を進めて吉安(江西省吉安市)・贛州(江西省贛州市)を下した。その功で、1364年、28歳という諸将と比べても異例の早さで江西行省右丞に昇進する。
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