鄭阮紛争とその後の鄭主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 09:28 UTC 版)
莫朝を駆逐し、成功を収めた鄭松にとって南部の支配域を広げる阮潢の動きは看過できないものとなっていった。 1620年に第18代皇帝神宗が即位すると、阮潢の子の阮福源は、東都(ドンドー、かつての東京)への貢納を拒否した。1623年に鄭松が末子の鄭椿の反乱により死去した後、跡を継いだ鄭梉(中国語版)と阮福源の間で5年にわたって政治的な交渉が繰り広げられたが、1627年についに戦端が開かれ、1673年に和平が結ばれるまで長い戦争時代が続いた。 後黎朝帝室の派閥を利用し合理的な統治を行った鄭氏は、自らの都合のいいように皇帝を選んでまた交代させた。カンボジア(英語版)やシャムと頻繁に干戈を交え、また政略結婚を行った阮氏と異なり、鄭氏は近隣諸国と平和的な関係を築くことに努めたが、1694年にはラーンサーンの複数の党派をめぐる戦争が起き、シャムとともに戦乱に巻き込まれた。10年の後、ラーンサーンは大越・シャム両者に隷属する3つの王国(ヴィエンチャン・ルアンパバーン・チャンパーサック)による不安定な小康状態に辿り着いた。 鄭根とその曾孫の鄭棡は多くの政治改革を行ったが、これらの改革は政権を強固にする代償に民衆の負担を増すことになり、民衆の不満は増大していった。酒食に耽った鄭杠(英語版)の脆弱で無能な統治の間に、民衆の蜂起が頻繁に起こるようになっていった。主な問題は農地不足であったが、鄭杠の統治はますます状況を悪化させていったため、重臣によるクーデターにより弟の鄭楹が当主となった。鄭楹は謙虚な人物であったが、その執政の間、農民反乱の鎮圧と、地方に跋扈する匪賊の討伐に追われることになった。
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