三王に協力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:24 UTC 版)
301年1月、趙王司馬倫が帝位を簒奪すると、3月に斉王司馬冏・河間王司馬顒・成都王司馬穎が対抗して司馬倫討伐の兵を挙げた。司馬乂もまた常山国の軍隊を統率して司馬冏らに呼応し、趙国へ軍を進めた。房子県令は城を固守して司馬乂軍に抵抗したが、司馬乂はこれを破ってその首級を挙げた。さらに進軍を続けて太原内史劉暾と合流すると、共に洛陽へ侵攻中である司馬穎の後援となった。この時、常山内史程恢は密かに謀反を目論んでいたが、司馬乂は鄴都まで到達した時にこれを察知し、先んじて程恢と彼の子5人を誅殺した。やがて討伐軍は勝利し、司馬乂は無事に洛陽に到達した。その後撫軍大将軍・領左軍将軍・驃騎将軍等の官職を歴任し、また元の長沙王に改封された。 司馬倫の処刑後は、司馬冏が朝政を主導するようになった。主簿王豹は司馬冏に手紙を送り、諸侯をそれぞれの封国に帰らせ、司馬穎・司馬冏の二人で天下を分けあうよう進言すると、司馬冏は王豹の意見に賛成した。だが、これを知った司馬乂は怒って司馬冏へ「小子(王豹)が骨肉(司馬一族)を離間させようとしている。処刑するべきだ」と訴え、司馬冏は王豹を逮捕して誅殺した。やがて司馬冏は権力を自分一人の下に集約して専横を振るうようになり、この頃司馬乂は司馬穎と共に先帝の陵墓へ拝した際、司馬穎に対し「この天下は先帝(司馬炎)が基業を創始したものだ。汝(司馬穎)はしっかりとこれを守らねばならぬ」と述べ、暗に司馬冏の専横を批判した。
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