三王挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:14 UTC 版)
当時、斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬顒の3名はそれぞれ強兵を擁して地方を治めており、司馬倫と孫秀はそれぞれに補佐訳を名目として朝廷の官吏を監視役に付ける一方で、司馬冏を鎮東大将軍に、司馬穎を征北大将軍に任じ、開府儀同三司の特権を与えて懐柔を図っていた。しかし301年、斉王司馬冏は監視役であった管襲を捕えて殺し、豫州刺史何勗・龍驤将軍董艾らと共に司馬倫打倒の兵を興した。同時に司馬穎・司馬顒・常山王司馬乂・南中郎将・新野公司馬歆に使者を送って協力を呼びかけ、各地の将軍や州郡県国にも決起の檄文を送り「逆臣孫秀が趙王を誤らせた。共に誅討しようではないか。命に従わない者は三族を誅す」と宣言した。司馬穎・司馬乂・司馬歆はこれに呼応し、また当初は朝廷側で参戦しようとしていた司馬顒も、反乱軍が優勢である事を知ると司馬冏の側に鞍替えした。 司馬倫と孫秀はこの挙兵に驚愕し、司馬冏の上書を偽造して「正体不明の賊に攻撃を受けております。我が軍は脆弱であり守ること敵わず、朝廷から援軍を派遣していただきますよう」と書き換え、これを救援するという名目で兵を動員して司馬冏らの討伐に当たらせた。司馬倫は楊珍を宣帝の廟に派遣して祈祷を行わせ、宣帝が司馬倫に感謝しており必ずや賊軍を撃ち破れると宣言させた。また、道士胡沃を太平将軍に任じ、幸運を招かせた。また、昼夜勝利を祈願し、宗族に羽衣を着用させて嵩山に登らせると、仙人王子喬のお告げを得たと称して神仙文書を作らせ、司馬倫の国運は長久に渡ると叙述させた。これにより民心を集めようとしたが、逆に困惑を招いたという。 反乱軍との戦闘は当初は優勢であったが、失態を犯して逃げ帰ってきた人物の保身のための虚報を信じた司馬倫が、連戦連勝であった張泓の率いる前線の軍に退却を命じてしまい、また司馬倫が皇帝権を代替する符節を3人の将に渡した事で混乱が生じるなど、指揮系統の乱れもあり徐々に反乱軍側に形勢が傾いていった。そして司馬穎の軍の急襲により湨水にて朝廷軍が大敗を喫すると、黄河を渡河され首都洛陽にまで迫られる事となった。
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