長安を放棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 08:48 UTC 版)
383年、苻堅は江南征伐を敢行し、総勢100万を超すともいわれる兵力を動員して建康に迫ったが、淝水の戦いで歴史的大敗を喫してしまった。これにより中華統一の夢は断たれることとなり、さらに前秦に服属していた諸部族の謀反を引き起こしてしまった。元前燕の皇族であった慕容沖もまた苻堅に反旗を翻して西燕を興すと、大軍を率いて長安城を包囲するに至った。 385年1月、西燕の尚書令高蓋が渭北の諸砦を荒らし回ると、苻宏は出撃して成貳壁に進んで高蓋を迎え撃ったが、大敗を喫して3万人が戦死した。 この時、長安は大飢饉により、人々が互いに食い合う有様であり、陥落するのは既に時間の問題であった。 5月、長安の城中には『古符伝賈録』という書があり、そこには『帝は五将を出でて、久長を得る」と言葉があった。また、これより以前には「堅は五将山に入り、長を得る」という謡が流行っていた。その為、苻堅はこれを大いに信じ、苻宏へ「この言の通り脱する事が出来れば、あるいは天が導いているかもしれん。今、汝をここに留めて軍事・政事の全て委ねる。賊と利を争うような事はするな。朕が隴を出たならば、兵を集めて兵糧と共に送り届けよう。これこそ、天からの啓示である」と告げ、苻宏に長安防衛を命じると共に、自らは中山公苻詵・張夫人・2人の娘苻宝・苻錦を伴って城を出立し、五将山へ向かった。そして州郡へは、10月に長安救援に向かうと宣言した。
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