姚萇の時代
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383年、苻堅は大々的に東晋征伐を敢行し、総勢100万を超すともいわれる兵力を動員して建康に迫ったが、淝水の戦いで歴史的大敗を喫してしまった。これにより中華統一の夢は断たれることとなり、さらに前秦に服属していた諸部族の謀反を引き起こしてしまった。 384年4月、姚萇もまた軍を放棄して渭北の馬牧場へ逃走して来ると、尹緯は同族の尹詳・南安出身の龐演と共に、西州(涼州一帯)の豪族である趙曜・王欽盧・牛双・狄広・張乾ら5万家余りを扇動して姚萇の下に集結し、彼を盟主に仰いで自立を勧めた。姚萇はこれを拒もうとしたが、尹緯は進み出て「今、百六の天命が集まっており、秦亡(前秦の敗亡)の兆は顕著に現われております。将軍(姚萇)の威霊(君主としての威光)・命世(世に名高い才)をもってすれば、必ずやこの艱難を匡済(乱れを正して救う事)する事が出来ましょう。故にこうして豪傑が馳せ参じ、みな等しく推仰しているのです。明公(姚萇)は心を降して議に従い、群衆の望みに沿うべきです。ただ座して彼らが沈溺していくのを見て、これを救わぬままでいてはなりません」と勧めた。姚萇はこれを聞き入れて自立を決断し、大将軍・大単于・万年秦王を称し、白雀という元号を定め、政務・事務全般を称制(皇帝に即位せずに政務を執ること)する事とした(後秦の建国)。尹緯は佐命の元勲として右司馬を拝命した。 385年7月、姚萇は長安を放棄して逃走中の苻堅を捕らえ、新平へ送還して別室に幽閉した。8月、姚萇は苻堅へ伝国璽を差し出させて自らへ禅譲させようと考え、尹緯を派遣して説得に当たらせた。尹緯は堯が舜に禅譲した故事を引き合いにして説得に当たったが、苻堅は尹緯を責めて「禅代(禅譲)とは聖人・賢人の事業であるぞ。姚萇のような叛賊が、どうして古人に擬えてよいだろうか!」と怒った。また苻堅は尹緯と論じ合っている時、尹緯へ「朕の朝(前秦)ではどのような官職であったか」と問うと、尹緯は「尚書令史であります」と答えた。苻堅はこれを聞いて嘆息して「卿は王景略(王猛)を思わせる宰相の才がある。それなのに朕は卿を知らなかった。国が亡ぶのも道理であろう!」と言うのみであった。やがて姚萇は刺客を派遣して苻堅を殺害した。 386年4月、姚萇は長安において帝位に即き、建初と改元して国号を大秦(後秦)と定め、百官を設置した。これにより尹緯は尚書左僕射に任じられた。 387年9月、杏城に割拠する前秦の馮翊太守蘭櫝は、前秦の并州牧苻師奴と対立するようになり、さらに西燕からも攻撃を受けた為、後秦に救援を要請してきた。姚萇はこの申し出に応じて自ら救援に赴こうと考えたが、尹緯は尚書令姚旻と共に「苻登(前秦の5代君主)は近く瓦亭におり、この機に乗じて我らの背後を襲おうとするでしょう。陛下は軽々しく動くべきではありません」と諫めたが、これに姚萇は「苻登の衆は強盛であるが、統制が取れておらず、すぐに動かす事は出来ない。それに登は慎重で決断力に乏しく、いつも好機を失している。我が自ら動くと聞いても、ただ兵や物資を集めるのみであり、必ずや軽々しく軍を深入りさせぬであろう。この両月の間に我は必ずや賊(苻師奴・西燕)を破り帰還する。もし登が至るとしても、何も為す事は出来ぬ。我が事は必ず成る」と答えた。9月、姚萇は泥源に侵攻して苻師奴に大勝し、10月にはさらに進撃して河西に駐屯していた西燕君主慕容永を攻め、これを退却させた。その後、降伏を拒んだ蘭櫝もまた12月には捕縛し、杏城を支配下に入れた。 391年12月、苻登が安定へ侵攻すると、姚萇はこれを迎え撃つ為に陰密へ出立した。かつて鄭県出身の苟曜は後秦に帰順していたが、密かに前秦への寝返りを考えていた。彼は姚萇不在に乗じ、長安の留守を任されていた姚興(姚萇の世子)の動向を探る為に長安へ赴いた。だが、姚萇は予めこれを看破しており、姚興の命により尹緯は苟曜を捕縛すると、その罪を咎めてから誅殺した。 392年3月、安定に滞在していた姚萇が病床に伏せるようになると、彼は姚興を安定の行営へ呼び寄せ、代わりに尹緯に長安を留守を委ねた。 393年4月、前秦の右丞相であった竇衝は前秦から離反し、秦王を名乗って自立した。7月,苻登が野人堡を守る竇衝を攻めると、竇衝は後秦に救援を要請した。これを受け、姚萇はどうすべきか軍議を開くと、尹緯は「太子(姚興)の仁は厚く、遠近にもその評判は轟いております。しかしながら、英略については未だ知られておりません。ここは太子自ら赴かせ、苻登を撃って威武を広めておく事で、窺窬(隙を狙われる事)の始まりを防いでおくべきかと」と勧めると、姚萇はこれに従い、姚興へ救援を命じた。姚興は兵を率いて胡空堡を攻めると、苻登は竇衝の包囲を解いてこれに赴いた。すると姚興は前秦の根拠地平涼を急襲し、大戦果を挙げてから帰還した。姚萇は再び姚興に長安を鎮守させた。 12月、病状が悪化した姚萇が長安へ帰還した。彼は自らの死期を悟り、尹緯・太尉姚旻・右僕射姚晃・将軍姚大目・尚書狄伯支らを禁中へ入れ、次期君主姚興の輔政をするよう遺詔を告げた。数日後、姚萇はこの世を去り、姚興が後を継いだ。尹緯は長史(参謀役)に任じられた。
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