姚萇の時代とは? わかりやすく解説

姚萇の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 02:40 UTC 版)

尹緯」の記事における「姚萇の時代」の解説

383年苻堅大々的東晋征伐敢行し、総勢100万を超すともいわれる兵力動員して建康迫ったが、淝水の戦い歴史的大敗喫してしまった。これにより中華統一の夢は断たれることとなり、さらに前秦服属していた諸部族謀反引き起こしてしまった。 384年4月姚萇もまた軍を放棄して渭北馬牧場へ逃走して来ると、尹緯同族の尹詳・南安出身の龐演と共に西州涼州一帯)の豪族である趙曜・王欽盧・牛双・狄広・張乾ら5万余り扇動して姚萇の下に集結し、彼を盟主仰いで自立勧めた姚萇はこれを拒もうとしたが、尹緯進み出て「今、百六の天命集まっており、秦亡(前秦敗亡)の兆は顕著に現われおります将軍姚萇)の威霊君主として威光)・命世(世に名高い才)をもってすれば、必ずやこの艱難匡済乱れ正して救う事)する事が出来ましょう故にこうして豪傑馳せ参じ、みな等しく推仰しているのです。明公姚萇)は心を降して議に従い群衆望み沿うべきです。ただ座して彼らが沈溺していくのを見て、これを救わぬままでいてはなりません」と勧めた姚萇はこれを聞き入れて自立決断し大将軍・大単于万年秦王称し白雀という元号定め政務事務全般称制皇帝即位せずに政務執ること)する事とした(後秦建国)。尹緯は佐命の元勲として右司馬拝命した。 385年7月姚萇長安を放棄して逃走中苻堅捕らえ新平送還して別室幽閉した。8月姚萇苻堅伝国璽差し出させて自らへ禅譲させよう考え尹緯派遣して説得に当たらせた。尹緯は堯が舜に禅譲した故事引き合いにして説得当たったが、苻堅尹緯責めて「禅代(禅譲)とは聖人賢人事業であるぞ。姚萇のような叛賊が、どうして古人擬えてよいだろうか!」と怒った。また苻堅尹緯論じ合っている時、尹緯へ「朕の朝(前秦)ではどのような官職であったか」と問うと、尹緯は「尚書令であります」と答えた苻堅はこれを聞いて嘆息して「卿は王景略(王猛)を思わせる宰相の才がある。それなのに朕は卿を知らなかった。国が亡ぶのも道理であろう!」と言うのみであった。やがて姚萇刺客派遣して苻堅殺害した386年4月姚萇長安において帝位に即き、建初改元して国号大秦後秦)と定め百官設置した。これにより尹緯尚書左僕射任じられた。 387年9月杏城割拠する前秦馮翊太守櫝は、前秦并州苻師奴対立するようになり、さらに西燕からも攻撃受けた為、後秦救援要請してきた。姚萇はこの申し出に応じて自ら救援に赴こうと考えたが、尹緯尚書令姚旻と共に苻登前秦5代君主)は近く瓦亭におり、この機に乗じて我ら背後襲おうとするでしょう陛下軽々しく動くべきではありません」と諫めたが、これに姚萇は「苻登の衆は強盛であるが、統制取れておらず、すぐに動かす事は出来ない。それに登は慎重で決断力乏しく、いつも好機失している。我が自ら動くと聞いても、ただ兵や物資集めるのみであり、必ずや軽々しく軍を深入りさせぬであろう。この両月の間に我は必ずや賊(苻師奴西燕)を破り帰還する。もし登が至るとしても、何も為す事は出来ぬ我が事は必ず成る」と答えた9月姚萇は泥源に侵攻し苻師奴大勝し10月にはさらに進撃し河西駐屯していた西燕君主慕容永攻め、これを退却させた。その後降伏拒んだ櫝もまた12月には捕縛し杏城支配下入れた391年12月苻登安定侵攻すると、姚萇はこれを迎え撃つ為に陰密へ出立した。かつて鄭県出身の苟曜は後秦帰順していたが、密かに前秦への寝返り考えていた。彼は姚萇不在乗じ長安留守任されていた姚興姚萇世子)の動向を探る為に長安赴いた。だが、姚萇は予めこれを看破しており、姚興の命により尹緯は苟曜を捕縛すると、その罪を咎めてから誅殺した。 392年3月安定滞在していた姚萇病床伏せるうになると、彼は姚興安定の行営へ呼び寄せ代わりに尹緯長安留守委ねた393年4月前秦右丞相であった竇衝前秦から離反し秦王名乗って自立した7月苻登野人堡を守る竇衝攻めると、竇衝後秦救援要請した。これを受け、姚萇どうすべきか軍議を開くと、尹緯は「太子姚興)の仁は厚く遠近にもその評判轟いておりますしかしながら英略については未だ知られておりません。ここは太子自ら赴かせ、苻登撃って威武広めておく事で、窺窬(隙を狙われる事)の始まり防いでおくべきかと」と勧めると、姚萇はこれに従い姚興救援命じた姚興は兵を率いて胡空堡を攻めると、苻登竇衝包囲解いてこれに赴いた。すると姚興前秦根拠地平涼急襲し大戦果を挙げてから帰還した姚萇は再び姚興長安鎮守させた。 12月病状悪化した姚萇長安帰還した。彼は自らの死期悟り尹緯太尉姚旻・右僕射姚晃・将軍大目尚書狄伯支らを禁中入れ次期君主姚興の輔政をするよう遺詔告げた数日後姚萇この世去り姚興が後を継いだ尹緯長史参謀役)に任じられた。

※この「姚萇の時代」の解説は、「尹緯」の解説の一部です。
「姚萇の時代」を含む「尹緯」の記事については、「尹緯」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「姚萇の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「姚萇の時代」の関連用語

1
尹緯 百科事典
14% |||||

姚萇の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



姚萇の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの尹緯 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS