姚襄を討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 06:13 UTC 版)
357年4月、関中攻略を目論んでいた姚襄が軍を進めて杏城に駐屯し、従兄の姚蘭を遣わして敷城を攻撃し、さらにその兄である姚益及び将軍の王欽盧を遣わして北地にいる羌の諸部族を招集させた。諸部族は皆この呼び掛けに応じ、五万戸余りが付き従い、集まった兵は二万七千を数えた。苻生は、苻黄眉・苻堅・鄧羌に、歩兵騎兵合わせて一万五千を与えると、姚襄討伐に向かわせた。これに対して姚襄は、堀を深く塁を高くして守りを固め、軍を進めようとはしなかった。鄧羌は「矢傷を負った鳥は、矢に当たっていないかのように見せかけて、地上に降りるといいます。姚襄はここ最近、桓温・張平に立て続けに敗北を喫しています。そのため、実は鋭気を大きく喪失しています。今、塁を固めて戦おうとしないのは、我らの侵攻に困惑しているからに他なりません。姚襄の性格は剛直なことで有名ですが、それが故に動かされやすくもあります。ここで我らが堂々と太鼓を打ち鳴らして軍を進め、塁に逼迫すれば、姚襄は必ずや憤りを覚え、軍を出撃させてくるでしょう。そうなれば一戦で生け捕りに出来ましょう」と苻黄眉に建策すると、苻黄眉はこれに従った。5月、鄧羌は騎兵三千を率い、塁門に迫る形で布陣した。姚襄は怒り、全軍を挙げて撃って出た。鄧羌は、相手に優勢に立っていると思わせるように軍を退き、姚襄軍を本陣から遠く引き離させた。姚襄はまんまとこの偽退却に引っ掛かり、追撃を続けて三原にまで至ったが、ここで鄧羌は騎兵を反転させ、敵軍に突撃を開始した。これを合図に、苻黄眉と苻堅が率いる本隊が姿を現し、大規模な戦闘となった。乱戦の最中で姚襄は斬り殺された。これによって、敵軍は戦意を失い降伏した。
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