姚泓即位前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/05 08:28 UTC 版)
後秦成立後、撫軍将軍・東平公に封じられた。397年9月、武都(甘粛省隴南市武都区)に住む氐族の屠飛、啖鉄らが方山に拠って、後秦に背いた。後秦皇帝・姚興に命じられて諸将を率いて討伐に赴き、屠飛、啖鉄を討ち取った。 399年10月、後秦が洛陽(河南省洛陽市)を奪取すると、都督山東諸軍事・豫州牧として洛陽を鎮守した。 402年8月、北魏討伐に向かった援軍のため、洛東の衆を率いて、平望において後秦天王・姚興らの諸軍と合流した。後秦軍が敗れたため、姚興は戦わずに帰還した。 409年9月、東晋が南燕に攻め込んだため、姚興は援軍として衛将軍・姚強に1万の兵を率いさせ、姚紹は南燕の臣・韓範と洛陽で合流して、南燕救援に向かった。しかし、夏天王・赫連勃勃が領内に侵攻したため、南燕への救援は取り止めとなった。 姚興の後継者争いでは、当初、大将軍・姚弼に与していた。姚弼の比翼と言われるほど、有力な協力者であった。 414年、姚興は姚紹を遣わし、姚弼とともに禁衛諸軍を率いて嶺北を鎮撫させた。遼東侯・弥姐亭地は陰密(甘粛省霊台県)の南部で衆を率いて、百姓から脅し取っていた。姚紹と姚弼は弥姐亭地を捕えて移送した。その配下7百余人を殺し、2千余戸を鄭城へ移した。 415年9月、姚弼は病気と称して、入朝せずに邸に兵を集めた。姚興はこれを聞くと激怒し、家臣らを召集して、密かに姚弼を捕らえようと謀った。このとき姚紹が兵を率いて雍城(陝西省鳳翔県)に駐屯しており、使者を遣わしてこれを告げたため、数日に渡って決行することがなかった。皇太子・姚泓が説得したため、姚興はこれを容れて姚弼らを許した。 416年2月、姚興が病床につくと、姚紹は右衛将軍・胡翼度と共に禁中の兵を委ねられて宿衛した。やがて、姚弼側は宮中を攻撃したが、姚泓側が死守して勝利した。その後、姚興は姚紹らを召し入れ、遺詔により姚泓を補佐させることとした。
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