姚弋仲との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
石虎は短気な性格であり、些細な事で激怒して人を殺害する逸話が多く記されているが、その中で羌族酋長姚弋仲との関係は異質を放っている。 姚弋仲は清倹であり剛直な人物であったが、儀礼・作法を修めていなかった。石虎に対しても幾度と無く直言を繰り返し、その言葉に遠慮や忌諱は無かった。それでも石虎は姚弋仲を甚だ重んじて、朝廷の大議に際には必ず姚弋仲を参画させ、公卿ですら彼を憚って同調したという。 334年、石虎は石弘を廃して居摂趙天王を称すると、群臣を朝廷に召し出したが、西羌大都督姚弋仲は病気と称して赴かなかった。幾度も召集を掛けるとようやく彼は赴いたが、表情を鋭くして石虎へ「汝は後事を託された身であるにもかかわらず、それを逆に奪うとはどういうつもりか!」と詰った。姚弋仲は尊卑に関係無く他人を汝と呼ぶ癖があったが、石虎は姚弋仲の発言に勢いがあり、また真っ直ぐであったので、これを咎めなかった。 349年、石虎は姚弋仲に高力督梁犢の討伐を命じたが、姚弋仲は兵八千余りを率いて南郊に駐屯し、まず石虎に拝謁する為に軽騎兵を伴って鄴へ向かった。この時、石虎は重病に伏していたので姚弋仲との面会を断り、領軍省に引き入れて酒食を振る舞わせた。姚弋仲は怒って食事を口にせず「我は賊を撃つべく招集された。食事をしに来たのではない!我は主上に会っておらず、その存亡(病状)も分からぬ。一見さえさせてくれならば、たとえ死んでも恨みはせん」と声を荒らげた。側近がこの言葉を石虎に伝えると、ようやく面会を許された。席上において姚弋仲は石虎へ「子(石宣)が死んで憂えているのかね。そのせいで病になったのかね。子が幼い時に良い補佐を与えなかっがたために、殺し合うような事態(弟の石韜の殺害)に至ったのだ。子にも過ちは有るだろうが、世話役に大いに責があったからこのような事態に陥ったのだ。汝の病は長引いておるが、世継ぎ(石世)も幼い。もし汝の病が癒えなかったら、天下は必ず乱れるであろう。これこそ憂うべき事であり、賊なんぞを憂慮している場合ではない。梁犢らは故郷に帰りたいと考え、その途上で困窮して賊となり、その行く先々を荒らしているに過ぎん。捕える事など造作もない。この老羌が命を賭して前鋒となり、一挙で決してくれよう」と言った。石虎は姚弋仲の暴言を咎めず、使持節、侍中、征西大将軍に任じると共に鎧馬を下賜した。姚弋仲は「汝はこの老羌が賊を破るに堪えられるかどうか見ておくがよい」と言い放つと、鎧を身に纏って庭中で馬に跨り、挨拶もせずに南に向かって飛び出て行った。その後、上述の通り姚弋仲は石斌らと共に梁犢を大破した。功績により、石虎は姚弋仲へ剣履上殿・入朝不趨を特権を認め、西平郡公に進封したという。
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