姚興の時代とは? わかりやすく解説

姚興の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 02:40 UTC 版)

尹緯」の記事における「姚興の時代」の解説

394年春、苻登姚萇の死を聞き、これを好機として軍勢総動員して東へ向かった同年夏、苻登は六陌から廃橋現在の陝西省咸陽市興平市)へ進出すると、後秦始平郡太守姚詳は馬嵬堡に籠ってこれを拒んだ姚興の命により、尹緯は姚詳救援向かい廃橋において前秦軍を待ち受けた苻登得ようとしたが尹緯阻まれ渇死する者が10人のうち分の2・3及んだ。その為、急いで尹緯討とう考えた姚興は狄伯支を急ぎ派遣して尹緯へ「兵法とは戦わずして人を制する者、どうしてこれを為さない事があろうか。苻登窮寇窮地陥った敵は死に物狂いとなり、逆襲されてしまう事を指す)である。持重してこれを挫くべきだ」と告げたが、尹緯は「先帝登遐崩御)し、人心動揺しております今は力を奮って逆豎(道理に背く小僧)を殺しつくす事を考えなければ、大事は去ってしまいますぞ!この緯は敢えて死を争いましょうぞ」と反対した。そして遂に大規模な会戦を行うと、敵軍大い破ったその夜前秦の衆は離散してしまい、苻登は止む無く単騎雍城逃走した。これにより前秦勢力事実上壊滅した397年9月鮮卑の薛勃が後秦背いて嶺北へ奔り、上郡・貳川の雑胡はみなこれに呼応し遂に安遠将軍姚詳の守る金城包囲した姚興の命により、尹緯姚崇と共に討伐向かった。薛勃自らもまた三交より金城へ侵攻すると、尹緯らは陣営並べてこれを食い止めたが、兵糧運送断たれてしまい、三軍大い飢えた尹緯姚崇へ「輔国(将軍)弥姐高地・建節(将軍成らはみな諸部の豪族であり、位は三品ありますが、運送監督しながらも停滞させ、三軍を乏絶させました刑法明らかにして怠慢罰するべきです」と述べ遂に彼らを処断した。諸部は大い震え上がり五十越え兵糧運ばれたので、軍は息を吹き返したという。その後姚興自らもまた2万率いて加勢到来すると、薛勃は恐れて軍を放棄して高平公没弈干の下へ亡命したが、捕らえられ送還された。 以降尹緯は輔国将軍司隷校尉尚書左右僕射歴任し清河侯に封じられた。 やがてこの世去った。その死に際して姚興甚だ悼み司徒追贈し、忠成侯と諡した。412年には他の功臣23と共に姚萇の廟に配饗された。

※この「姚興の時代」の解説は、「尹緯」の解説の一部です。
「姚興の時代」を含む「尹緯」の記事については、「尹緯」の概要を参照ください。

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