姚興の時代
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394年春、苻登は姚萇の死を聞き、これを好機として軍勢を総動員して東へ向かった。同年夏、苻登は六陌から廃橋(現在の陝西省咸陽市興平市)へ進出すると、後秦の始平郡太守姚詳は馬嵬堡に籠ってこれを拒んだ。姚興の命により、尹緯は姚詳救援に向かい、廃橋において前秦軍を待ち受けた。苻登は水を得ようとしたが尹緯に阻まれ、渇死する者が10人のうち分の2・3に及んだ。その為、急いで尹緯を討とうと考えた。姚興は狄伯支を急ぎ派遣して尹緯へ「兵法とは戦わずして人を制する者、どうしてこれを為さない事があろうか。苻登は窮寇(窮地に陥った敵は死に物狂いとなり、逆襲されてしまう事を指す)である。持重してこれを挫くべきだ」と告げたが、尹緯は「先帝が登遐(崩御)し、人心は動揺しております。今は力を奮って逆豎(道理に背く小僧)を殺しつくす事を考えなければ、大事は去ってしまいますぞ!この緯は敢えて死を争いましょうぞ」と反対した。そして遂に大規模な会戦を行うと、敵軍を大いに破った。その夜、前秦の衆は離散してしまい、苻登は止む無く単騎で雍城へ逃走した。これにより前秦の勢力は事実上壊滅した。 397年9月、鮮卑の薛勃が後秦に背いて嶺北へ奔り、上郡・貳川の雑胡はみなこれに呼応し、遂に安遠将軍姚詳の守る金城を包囲した。姚興の命により、尹緯は姚崇と共に討伐に向かった。薛勃自らもまた三交より金城へ侵攻すると、尹緯らは陣営を並べてこれを食い止めたが、兵糧の運送が断たれてしまい、三軍は大いに飢えた。尹緯は姚崇へ「輔国(将軍)弥姐高地・建節(将軍)杜成らはみな諸部の豪族であり、位は三品にありますが、運送を監督しながらも停滞させ、三軍を乏絶させました。刑法を明らかにして怠慢を罰するべきです」と述べ、遂に彼らを処断した。諸部は大いに震え上がり、五十万を越える兵糧が運ばれたので、軍は息を吹き返したという。その後、姚興自らもまた2万を率いて加勢に到来すると、薛勃は恐れて軍を放棄して高平公没弈干の下へ亡命したが、捕らえられて送還された。 以降も尹緯は輔国将軍・司隷校尉・尚書左右僕射を歴任し、清河侯に封じられた。 やがてこの世を去った。その死に際して姚興は甚だ悼み、司徒を追贈し、忠成侯と諡した。412年には他の功臣23人と共に姚萇の廟に配饗された。
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