姚錦との再婚から死までの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 07:14 UTC 版)
「袁犀」の記事における「姚錦との再婚から死までの活動」の解説
31歳のとき、高智と離婚。そして、32歳の時に姚錦と再婚し、生涯ともに過ごした。この頃から、出版社の仕事の傍で翻訳にも手を出すようになる。最初に翻訳したのが、小林多喜二の作品で、『党生活者』を年末に訳し終えた。続いて外文出版社の王振仁と合同で徳永直の『街』を翻訳。この頃も、文壇から色眼鏡で見られていた。『新観察』の編集部が彼に炭鉱の特写に関して書くことを頼んだ際、筆名を変えるように助言する。なぜかと聞くと、彼はこう答えた。「文藝界では誰もが李克異が袁犀であることを知っている。あなたの文章が載ると、皆あなたを軽蔑するだろう。日本書籍の翻訳なんかもってのほかだ。日本書籍を翻訳するなんて、もっと軽蔑されるだけだ!」また、1957年6月後に反右翼運動が席巻し、克異(袁犀)も目の敵にされる。11月14,15日『遼寧日報』が作家協会主導に書かれた反右翼文章を発表。題名は『東北地区文藝戦線上の闘争』。そのうち第三部分の‘徹底的に反動的漢奸の文化思想を粛清する’では、袁犀を資本主義階級の扇動者(つまり、漢奸)と断定し、批判を加える。しかしながら、仕事関係の仲間や上司の多くは袁犀の歴史を精査した結果、非常に信頼を置いていたため、袁犀は安心して編纂活動等を行なっていた。1958年4月5日、娘の元元が出生する。1959年から1960年の時まで、克異と姚錦は広東省委員会の宣伝部門の紹介から広東省珠江映画製作所文学部で編集責任者として従事する。鄭成功が台湾の領土奪還の脚本を起草したり、『向秀麗』の脚本を創作したりした。また、北平における抗日活動を題材に、『飛雪迎春』を書き上げる。ハ一映画製作所文学部の招待を受け、ハ一映画製作所で脚本『楊靖宇』を書く。彼は東北家郷の住民への愛に浸り、東北抗日連軍への敬愛を胸に日々寝食を忘れて仕事に従事する。『楊靖宇』は四稿書き、なべて四十万字。脚本への評価は総じて高かった。1961年の日記では、次のように言っている。「楊靖宇の燃え上がる英雄の炎は、私の魂に火をつけ、再び灯してくれた。私は自信を持てた。私はまだ書けるのだ!」また、1962年7月に映画協会の孟広釣に応えるために、岩崎昶の『日本映画史』の翻訳に従事。さらに、一週間の時間で脚本『帰心矢の如し』を書き上げる。しかし、季節の関係で撮影が一時中止した。1966年、文革『十六条』が頒布され、洛陽の街頭で書籍の焼却も行われていたため、克異はいち早く蔵書を保護することを考えて、全書籍を洛陽図書館に寄付した。この頃、喘息の併発症として肺気腫が発症したり、肺性心に罹るなど病気が相次いで克異を襲った。ある時危篤状態になるが、政治工作幹部の伝言から病院は治療することを拒む。妻姚氏が当番している東北同郷の医者に再三懇願の末、やっと克異に点滴をうつなどの対処を行った。退院後、水野亮によって翻訳されたバルザックの『農民』を翻訳。1972年から1974年の間、彼は珠江映画製作所に仕事の分配を要求するも、結果は実らず。逆に誹謗中傷を受けていた。そして、彼は空き時間を使って、前々から書くことを決めていた140万字の四部構成の長編小説を書くことを始める。題名は『不朽の人民』。第一部は1976年に完成。退院入院を繰り返しながらも創作を続けた。四人組の逮捕につれて、抑圧されていた社会的状況が改善される中、呉南生は克異が自己を奮興させて、歴史を題材とした長編小説を創作したことを知り、珠江映画製作所を頼りに李克異の居場所を突き止めようとした。こうして克異の『不朽の人民』は注目され、第一部の出版が決定する。出版社は北京青年出版社と広東人民出版社の両方から同時に出版することになった。第一部の編集は、中国青年出版社の招待より、付属の創作部屋で行われるようになる。毎日深夜二時まで編集を続ける中、第二部の創作に向けた情景や人物の構想も考えていた。彼は出版社の編集部に『長編小説『人民』について思うこと』を書いた。そこで次のように言った。「文学は厳粛な作業であり、そのために代価を支払う価値がある。文学芸術は創作と同義語・・・私は一律の千遍にまた一遍を付け加えることはしたくない。」同じ頃、『帰心矢の如し』は再び撮影に入る。電報から原稿の催しが相次いで来る中、昼は葱油餅一つだけを口にし、休むことなく時間の最大限を執筆に費やした。5月26日午後2時から4時の間に改稿中に突然脳溢血に襲われ、世を去った。題名『不朽の人民』は克異が最終的に苦慮の中考えた『歴史の回声』に変更されて、1981年に中国青年出版社と広東人民出版社で同時出版された。また、李克異の死からわずか1年の1980年に映画『帰心矢の如し』が全国放映となり、香港及び国際の映画祭に出品される。1983年8月1日、『帰心矢の如し』の脚本は見事第一回中国人民解放軍文芸賞を獲得する。
※この「姚錦との再婚から死までの活動」の解説は、「袁犀」の解説の一部です。
「姚錦との再婚から死までの活動」を含む「袁犀」の記事については、「袁犀」の概要を参照ください。
- 姚錦との再婚から死までの活動のページへのリンク