中華統一とは? わかりやすく解説

中華統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 02:59 UTC 版)

「秦」の記事における「中華統一」の解説

秦朝」も参照 秦王政は中華統一後、自ら皇帝名乗ったが、これを中国初め称したことから、始皇帝秦始皇)と呼ばれた。この称号は、伝説上の聖王である三皇五帝からとったものとも言われるが、『史記秦始皇本紀によると、大臣博士たちが「古に天皇てんこう日本の天皇とは別)、地皇泰皇有りその内で最も貴い泰皇名乗りましょう」と勧めたが、政は「泰皇の泰を去り、古(夏・殷)の君主名乗っていた帝を付し皇帝と名乗ろう」としたもの有る始皇帝度量衡文字統一郡県制実施など様々な改革行ったまた、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城整備し万里の長城建設、それに加えて阿房宮という増大宮殿建築行った万里の長城阿房宮建設には主に農民使役させていた。なお焚書坑儒などの思想政策断行したが、ただでさえ過酷な労働極度法治主義儒教弾圧まで加えたことで、全国の不満を高めてしまい、のちの反乱育て原因となってしまう。 匈奴に対しては、蒙恬派遣して北方撃退した。さらに、南方にも遠征し現在のベトナム北部まで領土広げた。このとき、南方には、南海郡現在の広東省広州市)・桂林郡現在の広西チワン族自治区桂林市)・象郡現在のベトナム北部前漢以降日南郡呼んだ)の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配始まりでもある。 秦朝全国36郡に分け中央政府支配する領土広げるごとに、新たな郡を次々置いた五嶺の南、南越支配した領土には、南海桂林及び象郡の3郡を、北に匈奴攻めて陰山以南切り取った地には九原郡現在の包頭市南西)を置いた。 また不老不死関心持ち始めた始皇帝国外へ探索命じるほどで、配下中には徐福のように船で日本まで出向いたとされる者もいる。しかし必要とあらば自らも現地赴くほどの過労人体有毒な水銀すら不老不死の薬信じて服用していた始皇帝は、逆に自身寿命縮めてしまう。

※この「中華統一」の解説は、「秦」の解説の一部です。
「中華統一」を含む「秦」の記事については、「秦」の概要を参照ください。

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