中華統一を目論む
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)
12月、慕容儁は前秦・東晋の併呑を目論み、州郡に命じて丁(成人男子)の数に漏れや誤りが無いか詳しく調査させ、1戸には1丁のみを残して残りを尽く徴発するよう命じた。これにより歩兵を150万まで増員し、来春には洛陽に集結させ、三方に命を下そうとした。だが、武邑出身の劉貴は「百姓が凋弊しているのに、兵を徴発するのは法に非ずといえましょう。人民はこの命に堪えられず、必ずや土崩の禍となることでしょう。また、政務の中で時に合致していないものが、10のうち3はあります」と上書し、固く諫めた。慕容儁はこれを善しとし、公卿に広く議論させてその多くを容れた。これにより、三五占兵(5人に3人の割合で成人男子を徴発する事)に改め、戦の準備期間を1年伸ばし、翌年の冬に鄴都に集結させるようにした。 当時、前燕では頻繁に兵の徴発が行われており、官吏は各個人がそれぞれ使者を派遣しては徴発活動を行っていた。その為、郡県は大いに困苦する事となり、また道路は大いに混雑した。同月、太尉・領中書監封奕はこの状況を憂えて慕容儁へ「これ以降、軍期が厳急でもないのに、むやみに遣使させてはなりません。また、そうでなくとも賦役や徴発は全て州郡の責任で行うべきであり、百官が督している外から来た者は、一切を帰還させるべきです」と諫めると、慕容儁はこれに従った。 同年、東晋の徐兗二州刺史・北中郎将荀羨が山茌へ侵攻した。泰山郡太守賈堅は奮戦むなしく生け捕りとなり、再三の降伏勧告にも応じずに憤死した。鎮南将軍・青州刺史慕容塵は司馬悦明を救援として派遣し、荀羨を大敗させて山茌を奪還した。慕容儁は賈堅の訃報を聞き、子の賈活を任城郡太守に任じた。 359年2月、慕容儁は鄴の顕賢里に小学を建て、王侯貴族の子らに学問を学ばせた。また、老年で病気に苦しんでいる者や、身寄りが無く生活の苦しい者を調査させ、穀帛を下賜した。 3月、子の慕容泓を済北王に、慕容沖を中山王にそれぞれ封じた。また、その他の弟や甥にも格差をつけて王公に封じた。 7月、高昌は遂に前燕の攻勢に抗しきれなくなり、城を棄てて白馬より滎陽へ逃走した。 8月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が2万の水軍・陸軍を率いて前燕を攻め、石門より侵入して黄河の岸に駐屯した。また、配下の将軍匡超をさらに険阻な山へ進ませ、蕭館を新柵に駐屯させ、さらには督護徐冏に水軍3千を与えて上流と下流に浮橋を作らせ、東西より気勢を上げた。慕容儁は長楽郡太守傅顔と上庸王慕容評に5万の歩兵・騎兵を与えて迎撃を命じ、傅顔らは東阿において諸葛攸を大敗させた。 同月、塞北(北の国境の外側の地域)に割拠する賀蘭・勅勒を始めとした7つの部族はみな前燕に帰順した。
※この「中華統一を目論む」の解説は、「慕容儁」の解説の一部です。
「中華統一を目論む」を含む「慕容儁」の記事については、「慕容儁」の概要を参照ください。
- 中華統一を目論むのページへのリンク