長安を出立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)
苻堅が華北をほぼ完全に平定すると、鄯善・車師・大宛・粛慎・天竺・康居・于闐など、東夷や西域に位置する凡そ62もの国家が相次いで前秦へ入貢するようになった。 382年9月、車師前部王弥窴・鄯善王休密馱は自ら来朝し、苻堅へ西域の服従していない国家を討ち、都護を設置して直接統治するよう勧めた。苻堅はかねてより西域を図ろうと画策していた事から、これに応じた。呂光は使持節・都督西域征討諸軍事に任じられ、陵江将軍姜飛・軽騎将軍彭晃・将軍杜進・康盛らと共に歩兵10万、精鋭騎兵5千を率い、西域征伐に赴くよう命じられた。隴西出身の董方・馮翊出身の郭抱・武威出身の賈虔・弘農出身の楊穎が四府となり、呂光の補佐に当たった。天王太子苻宏は呂光の手を執ると「君の器は常人のものではない。必ずや大福があろう。深く自愛するように」と激励した。 383年1月、呂光が長安を出発すると、苻堅は建章宮まで見送って「西戎は荒俗であり、礼義の邦(国家)ではない。羈縻の道(羈縻政策)とは、服従すれば赦す事にある。これにより中国の威を示し、王化の法において導く事に繋がるのだ。武力を振りかざしたり、過ぎたる残掠をしてはならぬぞ」と戒めた。また、鄯善王休密馱を使持節・散騎常侍・都督西域諸軍事・寧西将軍に、車師前部王弥窴を使持節・平西将軍・西域都護に任じ、その国の兵を率いさせ、呂光の嚮導(行軍の案内役)とした。
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