長安の奪取と失陥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)
洛陽を攻め落とすと、漢軍は8月、南陽王司馬模が守る西晋第二の都である長安の攻略に取り掛かった。漢軍が下邽に至ると司馬模は降伏し、これにより9月、長安は漢の勢力下に入った。劉曜は中山王に改封され、また車騎大将軍・開府儀同三司・雍州牧に任じられて長安の防衛を命じられた。しかし西晋の従事中郎索綝・護軍麹允・頻陽県令梁粛らは降伏を良しとせず、安定郡太守の賈疋に晋室復興への協力を仰いで平南将軍に推挙すると、諸々の氐族・羌族5万を率いて長安を攻撃した。扶風郡太守梁綜および雍州刺史麹特・新平郡太守竺恢らも、これに呼応して10万を率いて合流した。312年、賈疋・麹特らが長安を数カ月に渡って包囲すると、劉曜は士女8万家余りを引き連れて平陽に撤退し、これに乗じて司馬鄴(後の愍帝)は長安に入城した。長安失陥の責任を取り、5月、劉曜は龍驤大将軍・行本司馬に降格となった。 同年、劉曜は晋の司徒傅祗が守る三渚の城を陥落させ、住民2万戸余りを平陽に移住させた。また8月、晋陽を守る劉琨を攻撃して趙郡の亭頭まで敗走させ、西晋の尚書盧志・侍中許遐・太子右衛率崔瑋を捕えて平陽に送り、この功績により劉曜は車騎大将軍に復帰させられた。 同月、西晋と同盟を結んだ拓跋部の拓跋猗盧が20万を率いて狼猛へと進撃してくると、劉曜は拓跋六脩と汾東で戦ったが流矢に当たって落馬し、全身に7カ所の傷を負った。討虜将軍の傅武は自身の馬を劉曜に差し出したが、劉曜は「他人に構わず自分が逃れることを考えよ。私の傷は重く、ここで死ぬであろう」と言った。しかし傅武は涙を流し「私は小人に過ぎないのに、大王(劉曜)に見出されてここに至りました。いつも恩に報いることを考えておりましたが、今がその時です。皇室はまだ創業したばかりであり、天下に一日たりとも大王がいないわけにはいきません」と言い、劉曜を馬上に乗せて汾東を渡らせると、自らは駈け戻って戦死した。劉曜は晋陽に入ると、夜を待って劉粲らとともに民衆を引き連れ、蒙山を越えて撤退した。劉曜は平陽に戻ると戦後報告を行い、劉聡は戦死した傅虎に幽州刺史の官位を追贈した。 313年4月、西晋では司馬鄴が長安にて皇帝に即位した(愍帝)。同月、劉曜は司隷校尉喬智明・武牙将軍李景年らと共に、再び長安への攻撃を開始した。10月、劉曜は平西将軍趙染を前鋒大都督・安南大将軍に任じ、精鋭の騎兵5000を与えて長安を奇襲させて大勝を収めた。しかしその直後に西晋の麹允が兵を率いて奇襲すると、大敗を喫して冠軍将軍の喬智明が討ち死にし、劉曜は再び平陽に帰還した。 314年1月、劉曜は劉聡より大司馬に任じられた。同年5月、劉曜は趙染と共に再度長安の攻略を挑んだが、劉聡の使者からの「長安はひとまず置いておくのだ。晋陽の劉琨こそ国家にとって先に除くべきものである」との伝えを受けると蒲坂に兵を戻した。劉聡は劉曜を平陽へ招集して政治の補佐を任せた。趙染は単独で北地を攻めたが、城を攻める最中、矢に当たって戦死した。
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