後趙残党の掃討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)
もともと後趙の配下であった李歴・張平・高昌らは352年に各々前燕に帰順していたが、彼らは前秦・東晋にも同様に称藩して爵位を授かっており、実際にはどの勢力にも与する事なく守りを固めて動向を見守っていた。朝貢を絶やす事は無かったものの、忠誠を尽くす気など毛頭無かった。その中でも張平は新興・雁門・西河・太原・上党・上郡を領有し、傘下の城砦は300を超え、10万戸余りを従えて前秦・前燕に匹敵する第3勢力といえる規模となっていた。 馮鴦もまた357年に前燕に帰順していたが、すぐにその命に背いて張平の傘下に入っていた。ただ、張平が前燕へ使者を派遣して幾度も馮鴦をかばっていたので、慕容儁は馮鴦の行動を多めに見て京兆郡太守に抜擢した。だが、この時にも馮鴦は呂護と共に密かに東晋と通じていた。 358年2月、慕容儁は遂に馮鴦を見限り、司徒慕容評に討伐を命じたが、慕容評はなかなか攻め下せなかった。3月、慕容儁は領軍将軍慕輿根に慕容評の加勢を命じた。慕輿根は慕容評と共に急攻を決行すると、馮鴦は配下との間に不和を生じ、上党を放棄して野王にいる呂護を頼った。彼の率いていた兵はみな降伏した。 3月、前燕軍は冀州へ侵攻し、諸郡を攻め落とした。 9月、慕容儁は慕容評に并州の張平討伐を、司空陽騖に東燕の高昌討伐を、楽安王慕容臧に濮の李歴の討伐をそれぞれ命じた。陽騖は黎陽において高昌の別軍を攻めてこれを降し、高昌は東陵へ逃走した。慕容臧は李歴を撃破し、李歴は滎陽に逃走した。高昌・李歴の配下はみな降伏した。慕容評もまた并州に進むと、瞬く間に100を超える城砦が降伏した。また、張平配下の征西将軍諸葛驤・鎮北将軍蘇象・寧東将軍喬庶・鎮南将軍石賢らは138の城砦を明け渡して慕容儁に帰順した。慕容儁はこれを大いに喜び、みな元の官爵のまま職務に当たらせた。また、尚書右僕射悦綰を安西将軍・領護匈奴中郎将・并州刺史に任じ、降伏した城砦の慰撫に当たらせた。張平は3千の兵を伴って平陽へ逃走し、後に使者を派遣して慕容儁に謝罪し、許しを請うた。 10月、慕容儁は尚書郎段勤が東晋に寝返ろうとしたとして処刑し、弟の段思は東晋へ亡命した。 同月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が再び軍を率いて東郡へ襲来した。慕容儁は大司馬慕容恪らに命じてこれを迎え撃たせると、諸葛攸は軍を退いた。
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