後趙樹立とは? わかりやすく解説

後趙樹立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:12 UTC 版)

張賓」の記事における「後趙樹立」の解説

319年10月張賓諸将100余りと共に石勒尊号皇帝)を称するよう勧めた。だが、石勒は書を下して「我は徳が少ないながらも、偶然が重なり今の地位に至るのであり、周囲からの反発日夜恐れている。それなのに、どうして尊号称して四方の人から詰られる事など考えるか。かつて、周文(周の文王)は、天下3分の1占めながらも殷朝服属した。小白桓公)は周室を凌ぐ紀雄があったが、尊崇続けた。そしうして彼らは国家殷周よりも強国とした。我の徳は2伯に大きく劣るのだぞ。郷らは即座にこの議を止め二度と繰り返すことのないように。これより敢えて口にした者は、容赦無く刑に処する」と述べ取り合わなかった。 11月張賓文武官百29と共に「臣らが聞いたところによると、非常の度には必ず非常の功があり、非常の功があれば必ず非常の事が起きるといいます三代(夏・殷・周)が次第衰えると、五覇春秋五覇)が代わる代わる興り、難を静め時代救いました。まさに神聖にして英明であると言えましょう謹んで思いますに、殿下生まれながらにして聖哲であり、天運に応じてあらゆる世界鞭撻し、皇業を補佐しました。そのため、全ての大地困苦から息を吹き返し嘉瑞や徴祥は日を追って継ぎ人望劉氏超えたと言え明公に従う者は、10人いればその内9人となりました。こうして今、山川静まり、星に変事なく、四海次々と翻す様を見て天人思慕敬仰しております誠に中壇に昇り皇帝位に即いて、立身出世を図る者達にわずかばかりの潤を授けるべきなのです劉備が蜀に在し魏王曹操)が鄴に在し故事に依って河内・魏・汲・頓丘平原清河鉅鹿常山中山長楽楽平11郡と、趙国広平陽平章武勃海河間上党定襄范陽漁陽武邑燕国楽陵13郡を併合し合計24郡、29万戸以って新し趙国とする事を求めます。昔に倣って太守から内史改め禹貢倣って魏武冀州の境を復活させたように、南は盟津、西は龍門、東は黄河、北は塞垣とすべきでしょう。そして、大単于100蛮を鎮撫するのです。また并州朔州司州3州廃して、部司を置いて監督させるのです。謹んで願いますに、上は天意添い、下は群望を汲み取らん事を」と上疏し、再び帝位即くよう勧めた石勒はこれを9度辞退したが、なおも百官がみな叩頭し強く請うたので、遂にこの上疏を聞き入れた。ただし、帝位ではなく王位称した石勒趙王即位すると、張賓は大執法を加えられた。さらに、朝政取り仕切るよう命じられあらゆる官僚筆頭立てられた。 321年石勒は五品官定めると、張賓官吏選出委ねたこの後には九品官に改めた

※この「後趙樹立」の解説は、「張賓」の解説の一部です。
「後趙樹立」を含む「張賓」の記事については、「張賓」の概要を参照ください。

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