東晋との修好とは? わかりやすく解説

東晋との修好

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 06:48 UTC 版)

張駿」の記事における「東晋との修好」の解説

かつて、張駿傅穎使者として成漢派遣し建康へ表を奉じる為に蜀を通過する許可得ようとしたが、李雄より拒絶されていた。その為、333年になって張駿はまた治中従事張淳を派遣し成漢の藩と称する事で改めて道を通過する許可請うと、李雄大い喜んだ。張淳は通過許可されると龍まで進み、兵を募って表を通じ命がけ建康まで送り届けた朝廷はこれを称賛した。 まだ西晋健在だった頃、敦煌計吏耿訪は涼州から長安派遣されていたが、長安失陥に伴い漢中経由して江東逃れていた。やがて東晋樹立すると、耿訪は「涼州の民は中興東晋成立)を知りませんので、使者派遣すべきです。臣が郷導となって涼州慰撫します」と幾度も上書した。当時連年渡り難が相次いだので認められなかったが、ここに至って朝廷は耿訪を守侍御史任じ隴西出身の賈陵を始め12人を配下とし、張駿鎮西大将軍任じて校尉刺史・公は以前通りとする詔を持たせて派遣した。だが、この一行梁州まで到達した時、通行遮られた。その為、耿訪は建康呼び戻されたが、賈陵に詔書託して商人変装させ、涼州へ向かわせた。そして、賈陵はこの年になってようやく涼州到着した詔書拝受し張駿部曲督王豊を派遣して報謝すると共に、賈陵を帰還させて東晋の臣を称した。だがその一方で未だに西晋元号継続し、その統治には服さなかった。 334年2月東晋朝廷は耿訪・王豊を派遣し張駿大将軍都督陝西秦涼諸軍事に任じる印綬授けた。この時期梁州涼州交通開けようになったので、前涼毎年東晋朝廷使者を送るようになった同年武威敦煌において降り、この時に植えた五穀尽く出したので、天麦と名付けられた。

※この「東晋との修好」の解説は、「張駿」の解説の一部です。
「東晋との修好」を含む「張駿」の記事については、「張駿」の概要を参照ください。

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