東映第二番線の誕生
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第二東映の発案者は今田智憲で、大川博東映社長が今田案を採択し、導入を決めたもので、設立経緯は東映動画と同じだった。岡田茂は反対したが、1960年(昭和35年)3月、第二東映は発足した。 第二東映の社長は、大川博東映社長が務め、本社を東映本社内に置いた。第二東映本社機構のうち、総務部長と経理部長には、東映本社の総務部次長と経理部次長であった土屋唯男と柴田昌久を据え、生産拠点である「東京製作所」、「京都製作所」をそれぞれ東映の東京・京都の撮影所内に置き、それぞれの取締役製作所長として、東映の取締役であり両撮影所長でもある山崎真一郎、坂上休次郎を配置した。東京製作所、京都製作所のそれぞれの製作部長を第二東映の取締役とし、当時東映の東京撮影所製作部長であった高橋昌一、京都撮影所次長兼製作部長であった岡田茂に実権を握らせた。 マキノ雅弘の回想によれば、第二東映発足当初、大川博は「1年間に東映が96本、第二東映が48本撮って、年間100億円の収入」を宣言したという。「第二東映」ブランドで最初に劇場で興行が行われた作品は、1960年(昭和35年)3月1日に公開された『次郎長血笑記 秋葉の対決』(監督工藤栄一)、『危うしGメン 暗黒街の野獣』(監督伊賀山正光)であり、その二本立興行である。前者が第二東映京都製作所、後者が第二東映東京製作所の作品である。 同年3月の配給開始以降、同年6月までの間、東映テレビ・プロダクション(新社)製作の中篇映画を第二東映が配給している。『まぼろし峠』(監督藤原杉雄、同年3月8日公開)、『まぼろし峠 完結篇』(同、同年同月15日公開)、『風小僧 風雲虹ヶ谷』(監督仲木睦、同年同月22日公開)、『白馬童子 南蛮寺の決斗』(同、同年同月29日公開)、『浪曲国定忠治 赤城の子守唄』(監督冬島泰三、同年4月5日公開)、『白馬童子 南蛮寺の決斗 完結篇』(監督仲木睦、同年同月12日公開)、『浪曲国定忠治 血煙り信州路』(監督冬島泰三、同年同月19日公開)、『青空街道』(監督藤田潤一、同年5月3日公開)、『青空街道 完結篇』(同、同年同月10日公開)、『風小僧 風流河童剣』(監督仲木睦、同年同月17日公開)、『風小僧 流星剣の舞』(同、同年同月24日公開)、『浪曲権三と助十 ゆうれい駕籠』(監督冬島泰三、同年6月7日公開)、『浪曲権三と助十 呪いの置手紙』(同、同年同月14日公開)の13作である。いずれも時代劇であり、まだ東映京都テレビ・プロダクション(1964年 - 1990年)が設立されていない時代であった。 当時の東映は東・西撮影所で「月八本体制」。第二東映を含めると東映は月に一六本の作品を公開した。
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