東映監督辞任 - 晩年
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「松木謙治郎」の記事における「東映監督辞任 - 晩年」の解説
東映監督辞任後はTBSテレビ・ラジオ解説者として活動し、1978年には野球殿堂入り。解説者時代の1973年に最初に刊行した『タイガースの生いたち―阪神球団史』(恒文社)は、情報の乏しい1リーグ時代における貴重な資料となっており、阪神の歴史に関する書籍はほとんどが松木の著書を参考にしたものである。松木の死後に同じく元阪神選手であり、松木ともマネージャー時代に直接接していた奥井成一が1986年以後の部分を書き足し、1992年に松木の部分と合わせて『大阪タイガース球団史 1992年度版』ISBN 4-583-03029-0 としてベースボール・マガジン社から発行されている。1977年と1978年には青木一三スカウト部長の招聘で、クラウンライターライオンズの島原春季キャンプ臨時コーチを務めた。1977年は高齢ながら土井正博に「両手の力を平均して使え」と忠告し、外国人選手を含むナインからは好評であった。1978年には立花義家を「張本二世」と評し、根本陸夫監督が開幕戦で三番打者として抜擢。同年には二番・右翼手のレギュラーに定着した。 阪神が初の日本一に輝いた1985年、シーズンオフに行われた球団主催の日本一記念パーティには歴代監督のひとりとして招待された。 1986年2月21日死去。享年77。
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