東映生田スタジオの設立
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「仮面ライダー」の記事における「東映生田スタジオの設立」の解説
「東映生田スタジオ」も参照 企画立案と平行して撮影拠点の準備が進められていた。当時、東映の労使関係は泥沼化していたため、春闘による番組制作への影響が懸念され、大泉撮影所以外に撮影拠点を用意する必要があったためである。平山や斎藤頼照とともに組合問題で東映京都撮影所を追われた内田有作が所長となり、急遽神奈川県川崎市多摩区(現麻生区)郊外の貸しスタジオを東映生田スタジオとして機能させ、そこでの制作が決まった。 主要スタッフは、内田が制作担当を務めていた『柔道一直線』の監督・助監督・制作担当らが参加。生田スタジオをフリーランスの寄り合い所帯にはしたくないという内田の考えから制作・演出を担当する東京映像企画という会社が設立され、東映社員以外はそこへ所属する形となった。アクションも『柔道一直線』から大野剣友会が参加した。キャラクター制作と美術全般は大映特撮などを手掛けたエキスプロダクションが担当。照明班や撮影班は、経営が悪化していた大映東京撮影所のスタッフが集められ、S.Kプロ(後にプロダクション・ショットと改名)として参加した。このようにして、東映の生え抜きではない異例のスタッフ編成が行われた。6日にスタッフの顔合わせがあり、撮影に入ったのは2月7日であった。 企画段階で紆余曲折を経た本作品は、番組制作が開始されても順風満帆とはいかなかった。元々貸しスタジオである東映生田スタジオには満足な撮影設備もなく、撮影用の平台が1つあるのみで、プレハブ造りのバラックの建物は雨が降ると反響音によってアフレコもできない状況だったという。
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