楊難敵の時代
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楊難敵は左賢王を称して下弁に割拠し、楊堅頭は右賢王を称して河池に割拠した。 322年2月、前趙皇帝劉曜が仇池を攻撃すると、楊難敵は兵を率いて迎え撃つも敗れ、仇池に撤退した。これにより、仇池の諸氐・羌は劉曜に降伏した。楊難敵は使者を派遣して前趙に降伏すると、武都王に封じられた。 323年8月、前趙の襲来を恐れ、仇池を放棄して楊堅頭と共に漢中に奔ったが、前趙の鎮西将軍劉厚より追撃され、輜重や衆人が多数略奪された。劉曜は益州刺史田嵩に仇池を守らせた。 楊難敵は成漢に降伏の使者を派遣したが、前趙軍が撤兵するとすぐに成漢に反旗を翻した。成漢皇帝李雄は領軍李琀・将軍楽次らを派遣して下弁を攻撃させ、さらに征東将軍李寿を派遣して陰平を攻撃させた。楊難敵は李寿の侵攻を阻むと共に、李琀・李稚の退路を遮断して四方から攻撃し、数千人を殺害した。 325年3月、漢中から仇池へ侵攻し、これを陥落させた。これにより、再び仇池を領有するようになった。 327年1月、前趙の武衛将軍劉朗が仇池を襲撃したが、撃退した。 331年7月、成漢の大将軍李寿が陰平・武都を攻撃したが、撃退した。 334年1月、楊難敵は亡くなると、子の楊毅が後を継ぎ、左賢王・下弁公を称した。楊毅は東晋へ使者を派遣して称藩した。これ以降、仇池は一貫して東晋に従属し、代々仇池公に封じられている。
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