楊駿との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:52 UTC 版)
289年11月、武帝は病に倒れると、司馬亮と外戚の楊駿の二人のに皇太子司馬衷の補佐を任せようと思案していた。しかし楊駿は司馬亮が権力を握り自らの権勢が妨げられる事を嫌い、表向きには子の司馬羕を西陽公に封じさせるなど待遇を重んじるよう装いつつ、許昌への出鎮を命じるよう娘の皇后楊芷と共に働きかけ、司馬亮を中央から追い払おうとした。290年4月、司馬亮はこの時まだ洛陽を発っていなかったので、武帝は改めて司馬亮と楊駿に後事を託すよう遺詔を残した。しかし楊駿は中書の下から遺詔を持ち去ると、自らの都合の良いように作り直した。 間もなく武帝が崩御して司馬衷(恵帝)が後を継ぐと、太尉・太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・録尚書事に任じられた楊駿が朝廷の全権を握る事となった。司馬亮は武帝の訃報を知るも楊駿の権勢を恐れて葬儀には赴かず、洛陽城外から哀悼だけを済ませて立ち去った。この際、楊駿は密かに司馬亮を討ち取ろうと目論み、石鑒らに司馬亮の討伐を命じたが、石鑒は従わなかった。これを知った司馬亮は廷尉の何勗の下へ赴いて対応策を尋ねると、何勗は「なぜ自身が討たれる事ばかりを恐れ、逆に楊駿ら討つ事を考えないのか」と答えた。またある者は兵を率いて宮殿に入り楊駿を殺害するよう司馬亮に勧めたが、司馬亮は結局いずれの提案も従わず、都を離れて許昌へと向かい難を逃れた。 291年1月、恵帝の皇后賈南風は楊駿の権勢を妬み、宦官董猛・孟観・李肇と共に誅殺の計画を練った。また、李肇を許昌に派遣して司馬亮へ楊駿討伐に協力するよう持ちかけたが、司馬亮は応じなかった。3月、賈南風は恵帝の弟である楚王司馬瑋と結託して政変を起こし、楊駿とその三族、また側近の者を尽く捕らえて誅殺した。
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