居摂趙天王に即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
群臣が魏台へ詣でて石虎へ位を継ぐよう勧めると、石虎は「王室は多難であり、海陽は自棄となった。四海の業は重く、故にその推し逼る所を免じ、これに従うとしよう。だが、朕が聞くところによると、その道が天地に適う者は皇を称し、その徳が人神と合う者は帝を称すると言う。皇帝とは盛徳の号であり、とても受けられる所ではない。居摂趙天王を称すべきである(居摂とは大臣が皇帝に代わって政治を執る事)」と述べ、その言葉通りに居摂趙天王を称した。そして、夔安を侍中・太尉・守尚書令に、郭殷を司空に、韓晞を尚書左僕射に、魏概・馮莫・張崇・曹顕を尚書に、申鍾を侍中に、郎闓を光禄大夫に、王波を中書令に任じ、文武百官もその功績に応じて各々任官し、子の石邃を太子に擁立した。また、廮陶県から柳郷を分け、停駕県を置いた。石虎は『天子は当に東北より来たる』という讖文があった事を理由に、法駕(皇帝の乗る車駕の一種)を備えて信都へ向かい、それから再び襄国へ帰還する事で讖文に応じようとした。 12月、後趙の徐州従事朱縦は徐州刺史郭祥を殺害すると、彭城ごと東晋に降った。石虎は将軍王朗に兵を与えて討伐を命じると、王朗はこれを破って朱縦を淮南へ敗走させた。 335年1月、石虎は大赦を下し、建武と改元した。また、尚書の奏事については世子の石邃にその裁決を委ね、郊廟の祭祀・牧守の選任・征伐・刑断に関しては自ら臨んだ。 この年、鸛雀台が崩壊し、責任者である典匠少府任汪を殺害すると、再びこれを修築して以前の倍の大きさとした。 石邃の保母は劉芝といい、もともとは巫術をもって昇進したが、石邃を養った事により大いに寵愛を受けるようになった。さらに賄賂を贈った事と、言論について預かった事により、朝廷を傾ける程の権力を手に入れた。彼女の一門はみな高貴な身分となり、彼女自身もまた宜城君に封じられたという。 3月、石虎は南遊を行い、長江に臨んでから帰還した。また、突騎10余りを派遣して歴陽に到達させると、東晋の歴陽郡太守袁耽はこの事を上表したが、騎兵の数について言わなかったので、朝廷は震え上がり、司徒王導は自ら迎撃に向かった。4月、成帝は諸将に歴陽救援と慈湖・牛渚・蕪湖の防衛を命じたが、後趙の騎兵がごく僅かである事を知ると、王導を退却させて袁耽を免官とした。 同月、石虎は征虜将軍石遇を中廬に侵攻させると、石遇は襄陽へ進んで東晋の平北将軍桓宣を包囲した。輔国将軍毛宝・南中郎将王国・征西司馬王愆期は荊州の兵を率いて救援に到来し、章山まで進んだ。石遇は20日に渡って攻勢を続けたが、兵糧が底を突き始めたのと疫病の蔓延により、軍を返して帰還した。 東晋の将軍淳于安は琅邪郡費県に侵攻すると、民を略奪してから軍を返した。 石虎はより広範囲から多くの租税を集めたいと考えていたが、運輸の労力が煩わしかった。その為、中倉に100万斛を入れると、残りは全て各地の水次(船舶の停泊する場所)に蓄えさせる事とした。また石虎は下書し、刑を贖うには銭を財帛に代えるか、銭が無くば穀麦を納めさせるよう命じた。これらは全て時価に従って歩合を定め、納められた物資については水次の倉に運ばせるようにした。 同年、冀州8郡において雨雹が降り、秋の収穫に大打撃を与えた。石虎は下書して自らを深く咎責すると共に、御史を派遣して各所の水次の倉に蓄えられていた麦を出させ、秋の収穫として支給した。最も被害が甚大だった地域については、労役を1年免除した。
※この「居摂趙天王に即位」の解説は、「石虎」の解説の一部です。
「居摂趙天王に即位」を含む「石虎」の記事については、「石虎」の概要を参照ください。
- 居摂趙天王に即位のページへのリンク