司馬冏の時代
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これ以降、司馬冏が輔政の任についたが、彼は自らの府に百官を招いて政務を行い、恵帝の批准を仰がずに事案の決済や官員の任免を行った。6月、司馬冏の兄である東萊王司馬蕤は王輿と共に司馬冏を倒す計画を練ったが、事前に露見して誅殺された。302年3月、皇太孫司馬尚が死去したため、代わって司馬覃を皇太子に立てた。 12月、長沙王司馬乂が司馬冏討伐の兵を挙げると、宮中に入って恵帝を支配下に置き、司馬冏のいる大司馬府を攻撃して諸々の観閣や千秋門・神武門を焼き討ちさせた。城内では雨のように矢が飛び交い、炎の勢いは天まで届かん程となったので、恵帝は上東門に避難したが、そのすぐ側まで矢が届いたので、近臣は身を挺して守ったという。さらに、百官は消火に励んだが、その過程で次々に命を落とした。戦いは三日間続いたが、最終的に司馬冏は敗れて捕えられた。司馬乂が恵帝の前に司馬冏を差し出すと、恵帝はこれを痛ましく思って助命しようとしたが、司馬乂は近臣を叱責して司馬冏を連れ出した。司馬冏は恵帝の方を振り向いて助けを期待したが、閶闔門外で処刑された。大赦を下し、太安と改元した。
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司馬冏の時代
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司馬倫の死後、斉王司馬冏が朝権を掌握して輔政の任に就いたが、彼は奢侈な生活を送って邸宅や館舎を大いに建築し、民衆を大いに失望させた。 302年11月、嵆紹は腐敗する朝政を憂え、上書して「臣が聞くところによりますと、前の轍を改める者は車を傾けず、往時の弊害を革める者は政を間違えないといいます。太一は元首を統べ、百司は多くの士を使役しました。故に周文(周の文王)は上を興し、成康(周の成王・康王)は下を穆した(穏やかに静めた)のです。『存して亡ぶるを忘れず(存続している時にも常に亡びる事を忘れない)』とは『易』の善義であります。願くば、陛下が金墉を忘れず、大司馬が潁上を忘れず、大将軍が黄橋を忘れる事のありませんよう(司馬倫の時代、恵帝は金墉城に幽閉され、大司馬司馬冏は潁上で敗れ、大将軍司馬穎は黄橋で敗れた)。そうすれば、禍乱の萌が兆す事は無いでしょう」と述べ、司馬倫と同じ過ちを繰り返さないよう戒めた。 次いで司馬冏にも書を送って「夏禹(夏王朝の始祖である禹)は卑室(質素な宮殿)である事により称賛を受け、唐虞(堯と舜)は茅茨(粗末な邸宅)である事により徳を明らかにしました。いくら家を大きくして富ませても、無益でありむしろ危亡を招きます。第舎を広くする為に太楽を毀敗し、力を尽くして三王(斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬顒)の為に邸宅を建てておりますが、はたして今日先を急いでやる事でしょうか!今、大事は定まり始めたばかりであり、万民は粛敬としながら、潤いがもたらされるを待っているのです。起造の煩いを省き、謙損の理について深く考えるべきです。復主(恵帝の復位)の功績を棄てるべきではありませんが、矢石の殆(戦乱の危機)もまた忘れてはなりません」と諫めた。司馬冏はこの進言に謙虚な態度で報いたが、結局振る舞いを改める事は無かった。 302年12月、嵆紹は朝廷での職務を免じられると、司馬冏により大司馬府に招き入れられ(司馬冏は大司馬の地位にあった)、左司馬に任じられた。だが、その10日後には長沙王司馬乂が政変を起こし、交戦の末に司馬冏を捕らえて誅殺した。政変が起こった時、異変を察知した嵆紹は逃げまどいながら宮殿へ向かった。東閤の下にいた弩兵は嵆紹を発見すると彼へ向けて射掛けたが、殿中の将兵である蕭隆は嵆紹の立派な姿を見てただものではないと考え、彼の前に進み出て射撃を止めさせたので、嵆紹は禍を免れる事が出来た。その後、滎陽にある旧宅へと帰還した。
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