司馬倫の簒奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:15 UTC 版)
司馬倫はひとまずは人心掌握と恵帝の補佐に務めていたが、やがて権力を独占するようになった。しかし、司馬倫は才能に乏しく知略が無かったので、実際には側近の孫秀が百官を動かした。8月、淮南王司馬允(恵帝の弟)は司馬倫の振る舞いに不平を抱き、排斥を目論んで決起したが、失敗して殺害された。同月、大赦が下された。孫秀の意により恵帝が詔を発し、司馬倫に九錫を下賜した。さらに、娘の河東公主は孫秀の子の孫会に嫁いだ。11月、大赦を下し、羊献容を皇后に立てた。 301年1月、司馬倫は帝位簒奪を決行すると、義陽王司馬威を宮殿に派遣して恵帝から皇帝の璽綬を奪い、禅詔(帝位を譲る詔)を書かせた。恵帝は太上皇とされ、金墉城(この時永昌宮と改称された)に幽閉された。なお、皇帝経験者で上皇の称号を贈られたのは、恵帝が最初である。皇太孫司馬臧は廃され、やがて殺された。 3月、三王(斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬顒)が司馬倫討伐を掲げて決起すると、洛陽へ進撃した。4月、洛陽でも左衛将軍王輿らが政変を起こして司馬倫を廃位して、金墉城から恵帝を招き入れた。群臣が頓首して謝罪すると、恵帝は「卿らの過失ではない」と咎めなかった。その後、恵帝は使者を派遣して三王を慰労し、また司馬倫に死を賜ると、司馬威らその一派を誅殺した。司馬倫が処刑されると、恵帝は帝位に復位した。永寧と改元し、大赦を下した。5月、襄陽王司馬尚を皇太孫とした。6月、大赦を下した。恵帝は詔を発して司馬穎の功績を表彰し、大将軍に任じて九錫を下賜する旨を伝えたが、司馬穎は九錫については固辞した。
※この「司馬倫の簒奪」の解説は、「恵帝 (西晋)」の解説の一部です。
「司馬倫の簒奪」を含む「恵帝 (西晋)」の記事については、「恵帝 (西晋)」の概要を参照ください。
- 司馬倫の簒奪のページへのリンク