司馬乂の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:06 UTC 版)
303年、御史中丞として招聘を受けたがこれを受けず、再び侍中に復職した。 同年7月、河間王司馬顒・成都王司馬穎が司馬乂討伐を掲げて挙兵し、洛陽へと進撃した。司馬顒らの大軍が城東まで至ると、司馬乂は「今日の西討において、誰を都督とすべきか」と諸将に問うた。軍中の将士はみな「願わくば嵆侍中(嵆紹)を軍の前鋒として力を尽くしていただければ、我らは死してもなお生となりましょう」と答えた。司馬乂はこれに同意し、嵆紹は使持節・平西将軍に任じられた。 304年1月、司馬乂軍は敵軍に対して連戦連勝であったが、東海王司馬越の裏切りにより洛陽は陥落してしまった。司馬乂が司馬顒配下の将軍張方により処刑されると、嵆紹もまた司馬乂に従っていた事から捕縛されたが、処罰については一旦保留とされ侍中に復帰した。その後は司馬穎が朝廷の第一人者となり、嵆紹を含めた公王以下の百官はみな鄴に赴き、今回の一件について司馬穎に謝罪する事を強いられた(司馬穎は鄴に留まったまま洛陽を間接統治していた)。司馬穎は司馬乂に与した罪で嵆紹らをみな解任し、庶人に落とした。
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