司馬允反乱
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中護軍・淮南王司馬允(恵帝の弟)は司馬倫の専横に不満を抱き、賈謐に連座して失脚していた石崇(石苞の子)や潘岳らの勧めを受けて決起の準備に入った。これを知った司馬倫は強い警戒心を抱き、司馬允を太尉に昇格させて中護軍の兵権を奪おうとしたが、司馬允は病と称して太尉の任を辞退した。さらに孫秀が偽の詔で司馬允を弾劾すると、これに激怒した司馬允は淮南兵と中護軍の兵700人を率いて宮殿に向かい、その途上で「趙王が謀反を起こしたため討伐する。協力する者は左肩を出せ!」と呼び掛け、多数の援軍を得てその兵数は膨れ上がった。一行は東宮にある相国府に向かい、司馬倫は迎撃を命じたものの連敗を喫して1000人余りの死者を出した。 太子左率の陳徽が東宮内部の兵を集めて司馬允に内から呼応すると、司馬允は承華門前に陣を構えて雨のように弓弩を降らせた。相国府主書司馬眭秘は身を挺して司馬倫を守り、矢を浴びて死んだ。朝から始まった攻勢は昼過ぎまで続き、司馬倫の部下は逃げまどって木の下に隠れ、全ての木に数百の矢が刺さるほどであった。陳徽の兄である中書令陳準は司馬允を援護しようと思い、司馬督護の伏胤に騎兵400と白虎幡(統率用の軍旗)を与えて東宮外の司馬允の陣に派遣した。しかしこの時、伏胤は司馬倫の息子である汝陰王司馬虔の調略により密かに司馬倫の側に寝返っており、伏胤は「淮南王(司馬允)を援護する」という偽の詔書を持って司馬允の陣に赴くと、これを迎え入れた司馬允を殺害した。これにより司馬允軍は瓦解し、乱は鎮圧された。 司馬倫は司馬允の子の秦王司馬郁と漢王司馬迪を殺害し、さらに連座により数千人を処刑した。また、かねてより司馬倫・孫秀と折り合いの悪かった潘岳・石崇・欧陽建も謀反に加担したとでっち上げられて一族皆殺しとなり、石崇の財産は没収された。さらに、司馬倫は司馬允の同母弟である呉王司馬晏を逮捕したが、光禄大夫傅祗らが処刑に反対したので、賓徒県王に左遷した。また、孫秀は司馬冏の存在を警戒し、許昌へ出鎮させて中央から遠ざけた。
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