司馬允反乱とは? わかりやすく解説

司馬允反乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:14 UTC 版)

司馬倫」の記事における「司馬允反乱」の解説

護軍淮南王司馬允恵帝の弟)は司馬倫専横に不満を抱き賈謐連座して失脚していた石崇石苞の子)や潘岳らの勧め受けて決起準備入った。これを知った司馬倫は強い警戒心抱き司馬允太尉昇格させて中護軍兵権奪おうとしたが、司馬允は病と称して太尉の任を辞退した。さらに孫秀が偽の詔で司馬允弾劾すると、これに激怒した司馬允淮南兵と中護軍の兵700人を率いて宮殿向かい、その途上で「趙王謀反起こしたため討伐する協力する者は左肩を出せ!」と呼び掛け多数援軍得てその兵数膨れ上がった一行東宮にある相国府に向かい司馬倫迎撃命じたものの連敗喫して1000余り死者出した太子左率の陳徽が東宮内部の兵を集めて司馬允に内から呼応すると、司馬允は承門前に陣を構えてのように弓弩降らせた。相国主書司馬眭秘は身を挺して司馬倫守り、矢を浴びて死んだ。朝から始まった攻勢昼過ぎまで続き司馬倫部下逃げまどって木の下隠れ全ての木に数百の矢が刺さるほどであった。陳徽の兄である中書令陳準は司馬允援護しようと思い司馬督護の伏胤に騎兵400白虎幡(統率用の軍旗)を与えて東宮外の司馬允の陣に派遣した。しかしこの時、伏胤は司馬倫息子である汝陰王司馬虔の調略により密かに司馬倫の側に寝返っており、伏胤は「淮南王司馬允)を援護する」という偽の詔書持って司馬允の陣に赴くと、これを迎え入れた司馬允殺害した。これにより司馬允軍は瓦解し、乱は鎮圧された。 司馬倫司馬允の子秦王司馬郁と漢王司馬迪を殺害し、さらに連座により数千人を処刑したまた、かねてより司馬倫孫秀折り合い悪かった潘岳石崇欧陽建も謀反加担したでっち上げられて一族皆殺しとなり、石崇財産没収された。さらに、司馬倫司馬允同母弟である呉王司馬晏を逮捕したが、光禄大夫傅祗らが処刑反対したので、賓徒県王に左遷したまた、孫秀司馬冏存在警戒し許昌へ出鎮させて中央から遠ざけた

※この「司馬允反乱」の解説は、「司馬倫」の解説の一部です。
「司馬允反乱」を含む「司馬倫」の記事については、「司馬倫」の概要を参照ください。

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