司馬冏誅殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:24 UTC 版)
302年、司馬冏の専横に不満を抱いた河間王司馬顒は、本拠地長安にて司馬冏打倒の檄文を発布し、各地の諸王と合流すると称して、洛陽城内にいた司馬乂には先んじて挙兵を促した。これは側近の李含の提言によるものであり、兵数で劣る司馬乂が司馬冏が破れる事を見越してのもので、それに乗じて司馬冏を打倒し朝政を壟断するという展望を描いていた。かくして司馬乂はこの呼び掛けに呼応し、側近の百人余りを伴って皇宮へ急行した。到着すると宮門を全て閉鎖し、兵士らを率いて司馬冏府の焼き討ちを実行した。司馬冏と司馬乂は宮中にて互いに相手方の罪を訴えて決起を呼び掛け、これにより城内では大量の矢が飛び交い、あちこちで炎が上がったという。百官は消火に励んだが、その過程で命を落とす者も続出した。 両者は三日間に渡って戦い続けたが、最終的には司馬冏の側についていた大司馬長史趙淵が寝返りを起こし、司馬冏を捕らえて投降した事で戦闘は終結した。司馬乂が恵帝の前に司馬冏を差し出すと、恵帝はこれを助命しようとしたが、司馬乂は近臣を叱責して司馬冏を連れ出し、閶闔門外で処刑した。司馬冏の首は六軍に示され、司馬冏に協力した者達もまた三族を誅滅され、死者は二千人を超えた。
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