司馬冏に呼応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:32 UTC 版)
301年1月、賈氏一派を粛清した趙王司馬倫は、側近の孫秀と謀って帝位を簒奪して国政を掌握した。孫秀は司馬穎が鄴を統治して強兵を擁しているのを深く憂慮し、征北大将軍に昇進させて開府儀同三司の特権を与え、懐柔を謀った。また、補佐を名目として臣下を鄴へ派遣し、司馬穎の監視に当たらせた。斉王司馬冏が司馬倫誅殺を掲げて挙兵すると、各地の諸王や将軍・州郡県国にも決起の檄文を送り「逆臣孫秀が趙王を誤らせた。共に誅討しようではないか。命に従わない者は三族を誅す」と宣言した。司馬穎はこれに呼応して軍を進め、朝歌に入った頃には20万余りの大軍になった。 司馬穎軍は緒戦でこそ敗北したが、その後は司馬倫軍の孫会・士猗・許超らの不和による指揮系統の乱れもあり、朝廷軍を破って黄河を渡り洛陽に迫った。その後朝廷内の政変により司馬倫・孫秀が殺害され恵帝が復位すると、司馬穎は洛陽に入城し、また司馬倫軍の残党と交戦していた司馬冏を援護して洛陽に招き入れた。
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