司馬倫の寵臣とは? わかりやすく解説

司馬倫の寵臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 07:39 UTC 版)

孫秀 (西晋)」の記事における「司馬倫の寵臣」の解説

孫秀の家は代々五斗米道奉じており、孫秀自身もまたその道であった若くして琅邪郡小吏となったが、彼は狡猾貪淫性格であり自慢ばかりしていたので、黄門潘岳その人となりを憎み幾度も鞭打って辱めたと言われる琅邪王司馬倫赴任すると、孫秀言葉巧み媚び諂ってその信頼を得るようになった。そして文書代行して作成するうになると、司馬倫はその文才称えた司馬倫無学皇族にあるにも関わらず文書読み書きさえ出来ない有様という人物だった)。277年8月司馬倫趙王改封されると、孫秀もまた戸籍を趙に移し侍郎任じられた。その後司馬倫の下で昇進重ね、その謀略一手引き受けた290年司馬倫関中守備に就くと孫秀もこれに付き従ったが、司馬倫関中混乱させて氐・羌の反乱招いてしまった事で296年更迭され代わりに梁王司馬肜司馬倫の兄)が関中守備任された。雍州刺史解系は弟の解結と共に司馬倫謀略担当する孫秀処刑し挙兵した氐・羌に謝罪するべきだ主張した朝廷第一人者であった司空張華はこの事を司馬肜伝えると彼もまた同意したが、孫秀友人辛冉司馬肜対し「氐・羌は勝手に反したまでであり、これは孫秀の罪ではありません」と弁護述べる、孫秀死罪免じられた。その後司馬倫洛陽召喚されるとこれに随行し司馬倫孫秀当時権勢誇っていた皇后賈南風始めとした賈氏一派取り入り司馬倫録尚書事尚書令地位与えるよう求めたが、司空張華らはやはりこれに反対したため2人は彼を憎んだ 299年12月皇太子司馬遹賈南風に陥れられて廃立幽閉されると、これに憤った右衛督司馬雅・常従督許超らは司馬遹皇太子復位賈南風皇后廃立計画し強大な兵権を握る司馬倫協力を仰ぐべく孫秀元に協力持ち掛けた孫秀は一旦はこれに同意して司馬倫伝えると司馬倫もまた賛同し通事令史張林と省事張衡らに命じて政変の際には内応するよう準備させた。しかし孫秀は裏では密かに司馬倫対し明公司馬倫)が賈南風結託していたのは周知の事実であり、例え今回司馬遹のために大功立てたとしても、周囲圧力により止むを得ず協力したぐらいにしか思われず、明公対す怨み無くなって感謝することなどないでしょう。むしろ今後過失があればそれを口実誅殺される恐れすらあります。ここはわざと決起遅らせ賈南風司馬遹害するのを待つべきです。その後司馬遹の仇を取るという大義名分賈南風排除すれば、後顧の憂い除いた上さらに大きな地位を得ることも可能でしょう」と勧めると、司馬倫同意した孫秀賈南風対し司馬雅らが彼女を廃して司馬遹迎え入れようとしていると言う情報流し、「急いで司馬遹殺害し周囲希望絶つべきです」と進言すると、 賈南風はついに黄門孫慮命じて司馬遹殺害させた。300年4月3日司馬倫孫秀らは右衛佽飛督閭和・梁王司馬肜斉王司馬冏と共に政変決行し賈南風廃位して建始殿に幽閉し賈氏一派尽く捕らえて処刑した司馬倫帝位簒奪野心抱いていたので、孫秀謀議して朝廷声望がある者やかねてより怨みがある者を除くことにした。これにより張華裴頠解系解結らが逮捕され三族皆殺しとなった側近の劉振・董猛・孫慮程拠らも処刑され張華裴頠取り巻きみなされた者多数罷免された。

※この「司馬倫の寵臣」の解説は、「孫秀 (西晋)」の解説の一部です。
「司馬倫の寵臣」を含む「孫秀 (西晋)」の記事については、「孫秀 (西晋)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「司馬倫の寵臣」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「司馬倫の寵臣」の関連用語

司馬倫の寵臣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



司馬倫の寵臣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの孫秀 (西晋) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS