司馬と戦車とは? わかりやすく解説

司馬と戦車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 01:46 UTC 版)

司馬遼太郎」の記事における「司馬と戦車」の解説

司馬戦車隊予備士官だった経験により、日本軍戦車についても強いこだわり持っており、著書エッセー幾度となく取り上げている。自分戦車隊予備士官時代の話を、同じく司馬原作テレビドラマ梟の城」の後番組としてテレビドラマ化を目指していたが、撮影困難として挫折した経緯もある。 司馬戦車第1連隊配属され満州牡丹江訓練受けたが、連隊本土決戦準備のため栃木県佐野市移動した。そこで司馬今後人生方向性左右するような強烈な体験をすることになる。ある日上陸してくる連合軍への邀撃作戦について説明するために大本営から将校訪れて戦車第1連隊士官集めた。一折り説明受けたのちに司馬がこの将校質問をしている。 速成教育をうけただけの私にはむずかしいことはわからなかったが、素人ながらどうしても解せないことがあった。その道路が空っぽという前提説明されているのだが、東京横浜には大人口が住んでいるのである。敵が上陸てくれば当然その人たちが動く。物凄い人数が、大八車家財道具積んで北関東や西関東の山に逃げるべく道路北上してくるに違いなかった。当時関東のほとんどの道路が舗装されておらず、路幅もせまく、やっと二車線程度という道筋がほとんどだった。戦車南下する大八車北上してくる、そういう場合交通整理はどうなっているのだろうかということであった...(その将校は)しばらく私を睨みすえていたが、やがて、昂然と「轢っ殺してゆけ」と、いった。同じ国民をである。 — 「石鳥居の垢」 司馬はこの大本営将校の話を聞いて民衆を守るのが軍隊ではなく民衆の命よりも軍のほうが大事なのかとショック受けて、「こんな愚かな戦争日本人はどうしてやってしまったのか」との問い司馬最大疑問となっていき、その謎を解くために書かれたのが後の小説であった。つまり、この戦車第1連隊での体験小説家司馬遼太郎原点とも言える昭和研究著名な半藤一利のように、出版業界歴史畑を長く扱ってきた者が(司馬担当者であった事もあり)この発言信じて帝国陸軍批判材料とする者もいる。「恐ろしい言葉です。逃げてくる無抵抗民衆を、作戦の邪魔になるから「ひき殺していけ」と言う。それを軍を指揮する大本営参謀」が言ったというのです。しかも、司馬さんの質問答えてたんですから、また聞きとか、伝聞とかではないんです。名前まではさすがに出されていませんでしたが、わたくしには当時参謀本部作戦課の秀才参謀たちのいくつかの顔が思い浮かんできました。」などと、推測交えた記述なされている。 しかし、この司馬体験談幾度も司馬著作発言登場するが、登場当初からは内容変遷している。このエピソード初め司馬著作登場するのは「中央公論1964年2月号の「百年単位」であるが、このときの記述によれば質問したのは司馬ではなく連隊の「ある将校になっており、回答したのは「大本営少佐参謀」とより具体的になっている。 ある日大本営少佐参謀がきた...連隊のある将校が、このひと質問した。「われわれの連隊は、敵が上陸する同時に南下して敵を水際撃滅する任務をもっているが、しかし、敵上陸とともに東京都避難民荷車家財積んで北上してくるであろうから、当然、街道交通混雑予想されるこういう場合、わが八十輌の中戦車は、戦場到達までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」高級な戦術論ではなくごく常識的な質問である。だから大本営少佐参謀も、ごくあたりまえな表情答えた。「轢き殺してゆく」私は、その現場にいた — 「百年単位」 この時の少佐参謀は、同席した司馬質問した連隊将校睨みすえることもなく自然に轢き殺してゆく」と答えたとされているが、司馬自身小説家としての原体験となった自認している重大事件について、司馬自身質問したことを忘れるはずがないという指摘もある。 そして司馬没する前年1995年鶴見俊輔との対談では、それまで大本営少佐参謀将校とされていた発言者が、同じ戦車第1連隊大尉となっている。 その人いい人なんですよ。その連隊戦車第1連隊)のスターのような人でした。若い大尉感じのいい...今でも感じいい人ですが、大本営にしばらく出向されておられたんです。 — 「昭和の道に井戸たずねてまた、この問答存在自体当事者から疑念呈されている。軍事史研究家土門周平本名近藤新治)(元戦車第二十八連隊中隊長)は「あの話は、われわれの間で大問になったんです。司馬さんといっしょ部隊にいた人たちに当ったけれど、だれもこの話を聞いていない。ひとりぐらい覚えててもいいはずなのですがね。」「当時戦車隊進出するのには、夜間、4なり5キロ時速で行くから、人を轢くなどということはまずできなかったですよ。」と述べている。当時日本軍連合軍戦闘爆撃機による空襲最大脅威であるため、大規模な移動戦闘爆撃機作戦制限される夜間に行うとする「夜間機動作戦」が原則であったが、予備士官ながらも戦車小隊であった司馬は、戦車第1師団司令部から各所連隊示達されていた「夜間機動作戦」をついて知らずに「かれら(避難民)を轢き殺さない限り作戦行動とれない」と思い込んでいたことになる。土門はこの件で一度司馬対談する機会があったという。企画した雑誌は「朝日ジャーナルであったが、その席で土門は「なんであんなことを言うのか。あの参謀は私の先輩だし、あなたの周りにいた将校も誰ひとりそんな発言聞いていない」と問いただすと、司馬はにやりと笑って近藤土門先生学者ですなぁ」とひとことだけ答えたという。土門はその言葉司馬の「私は小説家だから」という意味の発言ではないか考えたが、結局このときの対談お蔵入りとなり記事となることはなかった。 1973年戦車第1連隊第5中隊元中隊長西野大尉会長として満州時代駐屯地名を冠した石頭会」という戦友会発足した司馬妻女とともに京都開催され第一回目の会合出席して「私は西野さんの言うことならなんでも聞きます西野さん大事な体温計割っちゃったからな」と挨拶して一同笑わせている。その後加入した西野同期宗像正吉大尉が、あるときの二次会思い切って司馬に「轢いてゆけ」発言真偽ただしてみたところ司馬からは「宗像さん、新品少尉大本営参謀サシで話ができると思いますか」「私は小説家ですよ。歴史研究家ではありません」「小説というものは面白くなければ読者離れてしまいます」と語り作家の「創作」だったことを明かしたという。 自分乗った九七式中戦車については、「同時代の最優秀の機械であったようで」「チハ車は草むら獲物を狙う猟犬のようにしなやかで、車高低く、その点でも当時陸軍技術家能力高く評価できる」「当時の他の列強戦車ガソリン燃料としていたのに対し日本陸軍戦車は既に(燃費良いディーゼルエンジン動いていた」と評価する一方で、その戦闘能力については「この戦車最大の欠点戦争できないことであった。敵の戦車対す防御力もないに等しかった」と罵倒するなど愛憎入り混じった評価をしているが、九七式中戦車ノモンハン事件日中戦争太平洋戦争初期には、開発コンセプト沿った歩兵支援主力戦車としての活躍見せている。ノモンハン事件教訓もあって、主砲一式四十七粍戦車砲換装対戦車攻撃力強化され九七式中戦車改は、当時参戦列強国水準大きく立ち遅れていたが、ルソン島の戦いでは、第2戦車師団配備され同車が、アメリカ軍主力戦車M4中戦車M3軽戦車撃破するなど一定の戦果挙げてアメリカ軍戦訓広報誌Intelligence Bulletin』にて「もっとも効果的な日本軍戦車」との評価もうけている。また、中国大陸では対戦車能力乏し中国軍相手活躍し大戦末期1944年4月開始され大陸打通作戦では97式中戦車改が主力第3戦車師団が、1944年5月のわずか1か月で1,400走破湯恩伯将軍率い40万人中国軍撃破する原動力になったが、同車を含む師団参加戦車255輌のうちで戦闘撃破された戦車はわずか9輌であった九七式中戦車活躍見ていた中国共産党軍隊東北人民自治軍は、日本の降伏ののち、九七式中戦車改接収すると、自軍兵器として使用功臣号名付けられ九七式中戦車改国共内戦大活しながら生存し、現在も中国人民革命軍事博物館展示されているなどの活躍見せている。 一方で九七式中戦車の前の日本軍主力戦車八九式中戦車に対しては、その戦績への事実誤認含めたところで、罵倒されていることが多く司馬戦車について語った小説新潮連載の「戦車・この憂鬱な乗物」というエッセーで「B・Tホワイト湯浅謙三訳の『戦車及び装甲車』という本は世界中のその種の車の絵図初期発達史書かれているが、悲しいことに日本八九式中戦車については一行ものせていないのであるノモンハンあれほど悲劇的な最期遂げながら、その種の国際的歴史からも黙殺された」と司馬述べているが、司馬のいう『戦車及び装甲車』という本はブレイン・テレンス・ホワイト著『Tanks and Other Armored Fighting Vehicles, 1900 to 1918』の和訳であり、本の題名通り1918年第一次世界大戦までの戦車戦闘車両に関する書籍で、1929年皇紀2589年)に制式採用された八九式中戦車対象外であったまた、世界多数戦車所蔵し戦車歴史を見ることができるアメリカアバディーン戦車博物館八九式中戦車展示されている。 戦車第1連隊元中隊長であり、戦後AIU保険役員となった宗像は、秦郁彦からの司馬はなぜ日本軍戦車悪口言い続けたのか?という質問に対して「彼は本当戦車大好きだったんだと思います。ほれ、出来の悪い子ほどかわいいという諺があるでしょう」と答えている。司馬自身戦車乗っている自分の姿をよく夢に見ているが、その夢の内容を「戦車内部は、エンジンの煤と、エンジン作動したために出る微量鉄粉とそして潤滑油のいりまじった特有の体臭をもっている。その匂いまで夢の中出てくる。追憶甘さ懐かしさ入りまじった夢なのだが、しかし悪夢ではないのにたいてい魘されたりしている」と詳細に書き残しており、戦車対す司馬愛着感じることができる。また、戦車兵であったという軍歴否定的に捉えておらず、戦友会にも「無防備の裸で付き合える」として、積極的に出席していたほか、文藝春秋編集者として多く有名作家面識のあった中井勝との会話で、司馬作家井上靖従軍時代兵科が何であったかを中井尋ね中井が「輜重輸卒でしょう」と答えると、司馬は「そうや、よう知っとるねえ」とまんざらでもない表情になったという。司馬新聞記者の大先輩文壇では格上で頭があがらなかった井上が、兵科として旧日本軍では軽く見られがちだった輜重兵であったに対して戦車兵自分のほうが上であったという稚気っぷりな自負心持っていたと、司馬まんざらでもない表情見て中井思ったという。 のちに、戦車第1連隊司馬戦友であった宗像らは日本戦車部隊発祥の地久留米基地(現在は陸上自衛隊久留米駐屯地)にかつてあり、戦後進駐軍破壊された「戦車之碑」再建しよう奔走したが、再建目途立ったときに、碑文起草司馬依頼したところ、司馬二つ返事承諾し下記碑文送った大正14年 この地に日本最初戦車隊誕生したその後20年 戦い多く 戦域ひろがり ひとびとはこの車輛ともに生死昭和20年 その歴史閉じた世々価値観越えて事実後世伝えらるべきものであるために その発祥記念し この地に生き残れる者が相集い 死せしひとびとの霊を慰めつつ 戦車の碑を建てる 昭和49年5月戦車兵有志980余名 陸上自衛隊機甲科3500余名 — 司馬遼太郎 こうした司馬戦車対す思い感得していた戦車第1連隊戦友たちは、宗像一度問いただした以降敢えて大本営参謀の来隊は見た者も聞いた者もいないよ」などと口にすることはなかった。

※この「司馬と戦車」の解説は、「司馬遼太郎」の解説の一部です。
「司馬と戦車」を含む「司馬遼太郎」の記事については、「司馬遼太郎」の概要を参照ください。

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