司馬と戦車
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司馬は戦車隊予備士官だった経験により、日本軍の戦車についても強いこだわりを持っており、著書やエッセーで幾度となく取り上げている。自分の戦車隊予備士官時代の話を、同じく司馬原作のテレビドラマ「梟の城」の後番組としてテレビドラマ化を目指していたが、撮影困難として挫折した経緯もある。 司馬は戦車第1連隊に配属され満州牡丹江で訓練を受けたが、連隊は本土決戦準備のため栃木県佐野市に移動した。そこで司馬は今後の人生の方向性を左右するような強烈な体験をすることになる。ある日、上陸してくる連合軍への邀撃作戦について説明するために大本営から将校が訪れて、戦車第1連隊の士官を集めた。一折り説明を受けたのちに司馬がこの将校に質問をしている。 速成教育をうけただけの私にはむずかしいことはわからなかったが、素人ながらどうしても解せないことがあった。その道路が空っぽという前提で説明されているのだが、東京や横浜には大人口が住んでいるのである。敵が上陸ってくれば当然その人たちが動く。物凄い人数が、大八車に家財道具を積んで北関東や西関東の山に逃げるべく道路を北上してくるに違いなかった。当時は関東のほとんどの道路が舗装されておらず、路幅もせまく、やっと二車線程度という道筋がほとんどだった。戦車が南下する。大八車が北上してくる、そういう場合の交通整理はどうなっているのだろうかということであった...(その将校は)しばらく私を睨みすえていたが、やがて、昂然と「轢っ殺してゆけ」と、いった。同じ国民をである。 — 「石鳥居の垢」 司馬はこの大本営将校の話を聞いて、民衆を守るのが軍隊ではなく、民衆の命よりも軍のほうが大事なのかとショックを受けて、「こんな愚かな戦争を日本人はどうしてやってしまったのか」との問いが司馬の最大の疑問となっていき、その謎を解くために書かれたのが後の小説群であった。つまり、この戦車第1連隊での体験が小説家司馬遼太郎の原点とも言える。昭和史研究で著名な半藤一利のように、出版業界で歴史畑を長く扱ってきた者が(司馬の担当者であった事もあり)この発言を信じて、帝国陸軍批判の材料とする者もいる。「恐ろしい言葉です。逃げてくる無抵抗な民衆を、作戦の邪魔になるから「ひき殺していけ」と言う。それを軍を指揮する「大本営参謀」が言ったというのです。しかも、司馬さんの質問に答えてたんですから、また聞きとか、伝聞とかではないんです。名前まではさすがに出されていませんでしたが、わたくしには当時の参謀本部作戦課の秀才参謀たちのいくつかの顔が思い浮かんできました。」などと、推測を交えた記述がなされている。 しかし、この司馬の体験談は幾度も司馬の著作や発言に登場するが、登場当初からは内容が変遷している。このエピソードが初めて司馬の著作に登場するのは「中央公論」1964年2月号の「百年の単位」であるが、このときの記述によれば、質問したのは司馬ではなく連隊の「ある将校」になっており、回答したのは「大本営少佐参謀」とより具体的になっている。 ある日、大本営の少佐参謀がきた...連隊のある将校が、このひとに質問した。「われわれの連隊は、敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で撃滅する任務をもっているが、しかし、敵上陸とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるであろうから、当然、街道の交通混雑が予想される。こういう場合、わが八十輌の中戦車は、戦場到達までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」高級な戦術論ではなくごく常識的な質問である。だから大本営少佐参謀も、ごくあたりまえな表情で答えた。「轢き殺してゆく」私は、その現場にいた — 「百年の単位」 この時の少佐参謀は、同席した司馬や質問した連隊将校を睨みすえることもなく自然に「轢き殺してゆく」と答えたとされているが、司馬自身が小説家としての原体験となったと自認している重大事件について、司馬自身が質問したことを忘れるはずがないという指摘もある。 そして司馬が没する前年の1995年の鶴見俊輔との対談では、それまで大本営の少佐参謀や将校とされていた発言者が、同じ戦車第1連隊の大尉となっている。 その人、いい人なんですよ。その連隊(戦車第1連隊)のスターのような人でした。若い大尉で感じのいい...今でも感じのいい人ですが、大本営にしばらく出向されておられたんです。 — 「昭和の道に井戸をたずねて」 また、この問答の存在自体に当事者から疑念が呈されている。軍事史研究家土門周平(本名近藤新治)(元戦車第二十八連隊中隊長)は「あの話は、われわれの間で大問題になったんです。司馬さんといっしょの部隊にいた人たちに当ったけれど、だれもこの話を聞いていない。ひとりぐらい覚えていてもいいはずなのですがね。」「当時、戦車隊が進出するのには、夜間、4なり5キロの時速で行くから、人を轢くなどということはまずできなかったですよ。」と述べている。当時の日本軍は連合軍の戦闘爆撃機による空襲が最大の脅威であるため、大規模な移動は戦闘爆撃機の作戦が制限される夜間に行うとする「夜間機動作戦」が原則であったが、予備士官ながらも戦車小隊長であった司馬は、戦車第1師団司令部から各所属連隊の示達されていた「夜間機動作戦」をついて知らずに「かれら(避難民)を轢き殺さない限り作戦行動はとれない」と思い込んでいたことになる。土門はこの件で一度司馬と対談する機会があったという。企画した雑誌は「朝日ジャーナル」であったが、その席で土門は「なんであんなことを言うのか。あの参謀は私の先輩だし、あなたの周りにいた将校も誰ひとりそんな発言は聞いていない」と問いただすと、司馬はにやりと笑って「近藤(土門)先生は学者ですなぁ」とひとことだけ答えたという。土門はその言葉を司馬の「私は小説家だから」という意味の発言ではないかと考えたが、結局このときの対談はお蔵入りとなり記事となることはなかった。 1973年に戦車第1連隊第5中隊の元中隊長西野堯大尉を会長として、満州時代の駐屯地名を冠した「石頭会」という戦友会が発足した。司馬は妻女とともに京都で開催された第一回目の会合に出席して「私は西野さんの言うことならなんでも聞きます。西野さんの大事な体温計割っちゃったからな」と挨拶して一同を笑わせている。その後加入した西野と同期の宗像正吉大尉が、あるときの二次会で思い切って司馬に「轢いてゆけ」発言の真偽をただしてみたところ、司馬からは「宗像さん、新品少尉が大本営参謀とサシで話ができると思いますか」「私は小説家ですよ。歴史研究家ではありません」「小説というものは面白くなければ、読者は離れてしまいます」と語り、作家の「創作」だったことを明かしたという。 自分が乗った九七式中戦車については、「同時代の最優秀の機械であったようで」「チハ車は草むらの獲物を狙う猟犬のようにしなやかで、車高が低く、その点でも当時の陸軍技術家の能力は高く評価できる」「当時の他の列強の戦車はガソリンを燃料としていたのに対し、日本陸軍の戦車は既に(燃費の良い)ディーゼルエンジンで動いていた」と評価する一方で、その戦闘能力については「この戦車の最大の欠点は戦争ができないことであった。敵の戦車に対する防御力もないに等しかった」と罵倒するなど愛憎入り混じった評価をしているが、九七式中戦車はノモンハン事件、日中戦争、太平洋戦争初期には、開発コンセプトに沿った歩兵支援用主力戦車としての活躍を見せている。ノモンハン事件の教訓もあって、主砲を一式四十七粍戦車砲に換装し対戦車攻撃力が強化された九七式中戦車改は、当時の参戦各列強国の水準に大きく立ち遅れていたが、ルソン島の戦いでは、第2戦車師団に配備された同車が、アメリカ軍の主力戦車M4中戦車やM3軽戦車を撃破するなど一定の戦果を挙げて、アメリカ軍の戦訓広報誌『Intelligence Bulletin』にて「もっとも効果的な日本軍戦車」との評価もうけている。また、中国大陸では対戦車能力に乏しい中国軍相手に活躍し、大戦末期の1944年4月に開始された大陸打通作戦では97式中戦車改が主力の第3戦車師団が、1944年5月のわずか1か月で1,400㎞を走破、湯恩伯将軍率いる40万人の中国軍を撃破する原動力になったが、同車を含む師団の参加戦車255輌のうちで戦闘で撃破された戦車はわずか9輌であった。九七式中戦車の活躍を見ていた中国共産党の軍隊東北人民自治軍は、日本の降伏ののち、九七式中戦車改を接収すると、自軍の兵器として使用、功臣号と名付けられた九七式中戦車改は国共内戦で大活躍しながら生存し、現在も中国人民革命軍事博物館に展示されているなどの活躍を見せている。 一方で九七式中戦車の前の日本軍主力戦車八九式中戦車に対しては、その戦績への事実誤認も含めたところで、罵倒されていることが多く、司馬が戦車について語った小説新潮連載の「戦車・この憂鬱な乗物」というエッセーで「B・T・ホワイト著湯浅謙三訳の『戦車及び装甲車』という本は世界中のその種の車の絵図と初期の発達史が書かれているが、悲しいことに日本の八九式中戦車については一行ものせていないのである。ノモンハンであれほど悲劇的な最期を遂げながら、その種の国際的歴史からも黙殺された」と司馬は述べているが、司馬のいう『戦車及び装甲車』という本はブレイン・テレンス・ホワイト著『Tanks and Other Armored Fighting Vehicles, 1900 to 1918』の和訳であり、本の題名通り、1918年の第一次世界大戦までの戦車や戦闘車両に関する書籍で、1929年(皇紀2589年)に制式採用された八九式中戦車は対象外であった。また、世界の多数の戦車を所蔵し、戦車の歴史を見ることができるアメリカのアバディーン戦車博物館に八九式中戦車も展示されている。 戦車第1連隊の元中隊長であり、戦後にAIU保険の役員となった宗像は、秦郁彦からの司馬はなぜ日本軍の戦車の悪口を言い続けたのか?という質問に対して「彼は本当は戦車が大好きだったんだと思います。ほれ、出来の悪い子ほどかわいいという諺があるでしょう」と答えている。司馬自身も戦車に乗っている自分の姿をよく夢に見ているが、その夢の内容を「戦車の内部は、エンジンの煤と、エンジンが作動したために出る微量の鉄粉とそして潤滑油のいりまじった特有の体臭をもっている。その匂いまで夢の中に出てくる。追憶の甘さと懐かしさの入りまじった夢なのだが、しかし悪夢ではないのにたいてい魘されたりしている」と詳細に書き残しており、戦車に対する司馬の愛着を感じることができる。また、戦車兵であったという軍歴も否定的には捉えておらず、戦友会にも「無防備の裸で付き合える」として、積極的に出席していたほか、文藝春秋の編集者として多くの有名作家と面識のあった中井勝との会話で、司馬は作家井上靖が従軍時代の兵科が何であったかを中井に尋ね、中井が「輜重輸卒でしょう」と答えると、司馬は「そうや、よう知っとるねえ」とまんざらでもない表情になったという。司馬は新聞記者の大先輩で文壇では格上で頭があがらなかった井上が、兵科として旧日本軍では軽く見られがちだった輜重兵であったのに対して、戦車兵の自分のほうが上であったという稚気っぷりな自負心を持っていたと、司馬のまんざらでもない表情を見て中井は思ったという。 のちに、戦車第1連隊で司馬と戦友であった宗像らは日本の戦車部隊発祥の地の久留米基地(現在は陸上自衛隊久留米駐屯地)にかつてあり、戦後に進駐軍に破壊された「戦車之碑」再建しようと奔走したが、再建の目途が立ったときに、碑文の起草を司馬に依頼したところ、司馬は二つ返事で承諾し、下記の碑文を送った。 大正14年 この地に日本最初の戦車隊が誕生したその後20年 戦い日多く 戦域はひろがり ひとびとはこの車輛ともに生死し 昭和20年 その歴史を閉じた世々の価値観を越えて事実は後世に伝えらるべきものであるために その発祥を記念し この地に生き残れる者が相集い 死せしひとびとの霊を慰めつつ 戦車の碑を建てる 昭和49年5月旧戦車兵有志980余名 陸上自衛隊機甲科3500余名 — 司馬遼太郎 こうした司馬の戦車に対する思いを感得していた戦車第1連隊の戦友たちは、宗像が一度問いただした以降は敢えて「大本営参謀の来隊は見た者も聞いた者もいないよ」などと口にすることはなかった。
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