発達史
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黎明期 近代以前に構想または建造された潜水艦は以下のようなものがある。 当初は攻撃には、目標の下を通り抜けて浮上して曳航式の機雷をぶつける、もしくは、長い棒の先に外装水雷を付けてぶつける方法が考えられた。しかし、これらの方法は敵に接近する必要があることから危険性が高く、爆発時の衝撃が潜水艦にもダメージを与え、移動中の目標には使えない方法であった。 1614年大坂冬の陣において、徳川方の九鬼水軍が盲船と呼ばれる船を使用したという記述があり、いくつかの文献[要出典]がこの船を潜水艦であることを示している。これらの文献によれば大坂城の堀を水に潜ったまま移動し、城を構成する建築物に対して、浮上したうえで砲撃を行ったとされる。しかし、その後は九鬼氏が内部の争いを理由に江戸幕府に領地を奪われるなどして衰退し、水軍を失ったため、江戸幕府がこの盲船を使用することはなかった。 1620年オランダ人コルネリウス・ドレベルがイギリス海軍向けに発明した潜水艇。櫂(かい)による人力推進。実戦投入はされなかった。 1776年デヴィッド・ブッシュネルが開発したタートル潜水艇が登場。実際に建造され実戦投入された最初の潜水艇。本艦は卵形船体で乗員数は一人、人力駆動の螺旋型推進装置を装備しており、アメリカ独立戦争時に米国が使用したが、敵艦艇撃沈には至らなかった。 1864年アメリカ南北戦争で、南軍が人力推進型のハンリー潜水艇を投入。2月17日夜に、サウスカロライナ州チャールストン港外で、同港を封鎖中の北軍木造蒸気帆船「フーサトニック」を外装水雷により撃沈。史上初となる潜水艇による敵艦撃沈記録であった。しかしハンリー潜水艇も近距離で爆圧を受け沈没・乗員も死亡した。 なお、当時は潜水艇は敵味方双方から卑怯な兵器とみなされていた。潜水艇「デイヴィッド」に襲撃された装甲艦「ニューアイアンサイズ」の艦長は、同艦を襲撃時に捕虜になったデイヴィット艇長を「文明国で認められていない兵器を用いた罪で」裁判にかけて絞首刑にすると脅した。 最初の動力(非人力)潜水艦である、フランス海軍の「プロンジュール」が潜水試験に成功。12.5バールに加圧された圧縮空気をタンクに貯蔵し、これを利用するレシプロ式の空気エンジンで推進した。エンジンは80馬力を発揮し、4ノットの速度で5海里(9 km)の航続距離があった。最大潜行深度は10mで、武装は衝角と電気発火式の外装水雷であった。 1866年イギリスで技術士官ロバート・ホワイトヘッド(英語版)によって史上初めての魚雷であるホワイトヘッド魚雷が開発された。 1867年カタロニア人ナルシス・ムントリオルがスペイン海軍の援助を受けて、潜水艦「イクティネオII」を非大気依存推進させることに成功した。 1870年ジュール・ヴェルヌが架空の潜水艦「ノーチラス号」の登場する小説『海底二万里』を発表。沿岸航行がせいぜいだった当時、外海を自由に航行できる航洋型潜水艦が描かれている。 1888年電気モーターで推進する最初の潜水艦である、フランス海軍の「ジムノート」が完成。 1888年オスマン帝国海軍の「アブデュルハミト」が、水中からの魚雷発射により停泊中の艦艇の攻撃に成功。 1898年フランス海軍の「ギュスターヴ・ゼデ」が、航行中の水上艦艇に対する魚雷攻撃演習に成功。 最初の近代潜水艦 1900年近代潜水艦の父と呼ばれた造船技師、ジョン・フィリップ・ホランドによって設計された潜水艦ホーランド号(水中排水量74t)がアメリカ海軍に就役した。ホーランド号は主機のガソリンエンジンと電動機の直結方式であり、内燃機関によって推進する近代潜水艦の元祖であった。 1910年代ロシアを皮切りにドイツなどで機雷敷設型潜水艦が建造され、秘密裏に機雷敷設任務が行われることを期待された。 第一次世界大戦期 ホーランド号の就役以降、世界各国で潜水艦が注目されるようになり、列強海軍はこぞって潜水艦の建造に着手した。初期の潜水艦はガソリンエンジンが主流であったが、まもなくディーゼルエンジンに代替された。当時の潜水艦は、排水量100-1,000t、水上速力10kt、最大潜航深度100m程度であった。 潜水艦の本格的活躍は第一次世界大戦からとなる。逸早く潜水艦を有効利用したのはドイツ帝国であった。Uボートと呼ばれたドイツ潜水艦は、開戦直後の1914年9月、独海軍潜水艦が潜水艦の魚雷で沈められた偵察巡洋艦パスファインダーを皮切りに英巡洋艦4隻を撃沈したのを始め、次々と英国軍艦・貨客船を無差別に撃沈する無制限潜水艦作戦を行い通商破壊に活躍した。 英国の商船隊は大打撃を受け、英国経済を瀕死に追い込んだ。これに対して1915年6月23日に連合国側は、偽装船Qシップによって釣りだされた潜水艦をだまし討ちしようとした。しかし、これらの効果は芳しくなかった。 1915年7月、ルシタニア号撃沈により米国人多数が巻き添えとなる事件が発生した。これにより、当時の中立国であった米国の参戦を恐れたドイツ皇帝は無制限潜水艦作戦で攻撃する際の条件に厳しい要求を突きつけ、1915年9月以降は英国船舶への攻撃に消極的になり、その戦果は減少した。 ルシタニア号によって多数の武器が輸送されていたが、イギリスとアメリカの工作で隠蔽され、さらに悲劇的・大々的に扱われアメリカ開戦の理由ともなった。 その後、ドイツ帝国は戦局挽回のため1917年に無制限潜水艦戦を再開し、独海軍潜水艦隊は一時的に大戦果を上げた。しかし、英国が護送船団を採用すると、戦果は激減した。さらには英商船への無差別攻撃は米国の参戦を招き、第一次世界大戦敗北の一因となった。 第一次世界大戦では、ドイツ帝国海軍は381隻の潜水艦を就役させ、その内の178隻を喪失したが、終戦までに約5,300隻・1,300万トンに及ぶ艦船を撃沈する戦果を上げ、大西洋の狼・Uボートは世界にその名を轟かせたのであった。 戦間期 第一次世界大戦におけるUボートの活躍により潜水艦の有効性が立証され、各国は本格的な潜水艦隊運用に乗り出した。1930年、ロンドン海軍軍縮会議で各国の潜水艦の保有排水量を制限された。 第二次世界大戦 第二次世界大戦では、各国の潜水艦が通商破壊だけでなく戦艦や空母を含む戦闘艦撃沈の成果を上げて威力を発揮した。ドイツは開戦当初から潜水艦を活用して無制限潜水艦作戦を行った。第一次世界大戦では単独での運用が行われていたが、潜水艦集団で護送船団を追い詰める群狼作戦(ドイツ語:Rudeltaktik)を行った。しかし、アメリカ側も同じく群狼作戦を採用し、物量とレーダーと無線機を用いて、大西洋と太平洋を席巻した。 連合国側は、潜水艦に対して空母に搭載した偵察機とサーチライト、磁気センサ、ソノブイで潜水艦を探し出していた。 なお、この頃までは対水中攻撃に使える精度が高いホーミング魚雷が本格的に導入されていなかったため、水中を3次元的に移動する潜水艦同士の戦闘は困難であった。 潜水艦が潜水艦を撃沈した例としては、1945年2月に、ノルウェーのベルゲン沖で英潜水艦「ヴェンチャラー」が、潜望鏡深度を航行中の独潜水艦U-864をソナーで探知、数度シュノーケルを潜望鏡で目視したのちソナーで追撃して雷撃し、撃沈した例、1943年11月に第三次遣独潜水艦作戦の帰途についていた伊三十四がペナン島沖で洋上航行中に英潜水艦「トーラス」に撃沈された例がある。 また、双方による攻撃が行われた例としては、 1943年7月にステフェン海峡(英語版)で行われた米潜水艦「スキャンプ」と日本の伊号百六十八との間で行われた戦闘がある。 しかしいずれも撃沈された潜水艦は洋上またはそれに近い深度での航行中であり、現代において一般にイメージされる潜水艦同士の戦闘とは異なる。 イギリス 自国の商船部隊を壊滅寸前にまで追い込まれたイギリスは、ヴェルサイユ条約でドイツに対し潜水艦保有を禁止させ、 また新型の対潜兵器の開発などに注力しようとしたが、財政難による軍事費削減の影響で、戦間期において対潜作戦の技術は停滞していた。 ドイツ国 ヴェルサイユ条約により潜水艦保有を禁じられたドイツであったが、1935年の再軍備宣言と英独海軍協定(英語版、ドイツ語版)締結以後は建造を再開する。第二次世界大戦開始時、ドイツ海軍は再建途中であった。そのため、完成に時間が掛かる水上戦闘艦艇の建造を後回しにして潜水艦量産に注力し、Uボート部隊は前大戦同様に対英通商破壊に投入された。第二次世界大戦でのUボートの主力は、UボートVII型とUボートIX型である。 当初は英国貨客船を多数撃沈したが、後に連合国軍が新型対潜兵器や護衛艦・対潜哨戒機を多数投入するようになると、逆にUボート側が多数撃沈されるようになった。 これに対し、独側もUボートの性能向上を図り、シュノーケルやヴァルター機関などの新技術の開発や、奇跡のUボートと呼ばれたUボートXXI型を大戦末期に投入したが、戦況挽回には至らなかった。 大日本帝国 大日本帝国海軍は潜水艦を艦隊決戦における敵艦隊攻撃用に投入することを意図し、海大型潜水艦と巡洋潜水艦の二系列を中心に建造した。巡洋潜水艦は水上機を搭載したのが特徴で、航続力と索敵力に優れた偵察型であった。対して海大型は、水上速力と雷撃力に優れた攻撃型であった。伊四百型潜水艦は第二次世界大戦で就役した潜水艦で最大であった。 速度を重視して夜間の奇襲を繰り返すゲリラ戦で疲弊させる追躡接触反復攻撃を行うつもりであったが、演習の時点からうまくいかないことが分かっていた。そして、太平洋戦争では、開戦前に想定されていた艦隊決戦は起こらず、目立った活躍はなかった。 インド洋での通商破壊や、南方への輸送任務などに投入されたが、米海軍艦艇の優秀な対潜兵器の前に多くが撃沈されていった。 隠密性を生かして伊号第十七潜水艦はアメリカ本土砲撃を行い、艦載機を搭載した潜水空母となった伊号第二十五潜水艦がアメリカ本土空襲を行う作戦を行った。 アメリカ合衆国 アメリカ海軍もドイツ同様、潜水艦を対日通商破壊に投入した。米潜水艦は高性能なレーダーやソナーなどにより、電子兵装の劣る日本艦船を次々と撃沈していった。米潜水艦の活躍により日本商船隊は壊滅させられ、対日戦勝利に大きく貢献した。 第二次世界大戦後 1955年に完成した米海軍の「ノーチラス」(水上排水量3,180t)は、原子炉と蒸気タービンを採用した、史上初の原子力潜水艦であった。本艦は水中速力20ノット、潜航可能時間は3ヶ月間前後であった。原子力主機登場により、潜水艦の水中速力と水中航続力は大きく増大した。それにより、潜水艦の戦闘能力は飛躍的な向上を遂げた。 原子力潜水艦が大型水上艦艇を撃沈した例は、1982年のフォークランド紛争時に、英海軍の「コンカラー」がアルゼンチン海軍の巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」を雷撃にて撃沈した事例が最初である。「コンカラー」は「ヘネラル・ベルグラーノ」を24時間以上追跡したが、全く探知されなかった。この戦いにより、それまで水上艦に対し圧倒的に不利と思われていた原潜の有効性が証明された。逆にイギリスの潜水艦たった一隻を最後まで撃沈出来なかったため、アルゼンチン海軍は作戦の縮小を余儀なくされた。 1991年1月、湾岸戦争でアメリカの原子力潜水艦ルイビルが潜水艦から発射する潜水艦発射巡航ミサイル(英語版)のトマホークを実戦で使用した。 映画やシミュレーションゲーム等において潜航中の潜水艦同士の戦闘が描かれる場合があるが、第二次世界大戦以降において潜水艦を保有する国同士の洋上武力衝突自体があまり発生していないため、潜水艦同士の本格的な戦闘は現在に至るまで発生していないとされる。
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軍隊の形態は、その時代と国によって細部が異なるために一概には言えないが、ここでは西欧と日本における軍隊の発達史を概観する。
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Heine-Geldern(1932)やHornell(1943)のような初期の研究者は、ダブル・カヌー(カタマラン)はアウトリガーカヌーから進化したと考えていたが、Doran(1981)やMahdi(1988)のようなオーストロネシア文化を専門とする現代の研究者はそれは逆だと考えている。 二つのカヌーを結合したダブルカヌーは、2つの丸太を結合して作る「ミニマル」なイカダから直接開発されたとする。時間が経つにつれて、この単純なダブルカヌーが非対称のダブルカヌーに発展し、一方の船体がもう一方の船体よりも小さくなる。ここからさらに小さくなった船体がプロトタイプのアウトリガーになり、アウトリガカヌーが生まれた。さらにこれがオセアニアのリバーシブル(前後を入替可能、つまりアウトリガーを右にも左にもできる)なシングルアウトリガーカヌーに進化した。最後に、シングルアウトリガーがダブルアウトリガーカヌー(または三胴船)に発展したとする。 これはまた、海域東南アジア、マダガスカル、コモロといった故地のオーストロネシア人が、タッキング時(帆走中に風上方向に航行するための間切る操作)の安定性を重視して、ダブルアウトリガーを好む傾向がある理由を説明できる。しかし東南アジアでも、多数派ではなくともシングルアウトリガーが使用されている地域はある。対照的に、ミクロネシアやポリネシアのような遠隔地に拡散した子孫集団は、ダブルアウトリガーの技術がそこまで発達せず、ダブルカヌーとシングルアウトリガーカヌーを使い続けた(距離的に東南アジアに近い西メラネシアは例外)。アウトリガーがタック時に風下を向いたときの不安定性に対処するために、彼らはリバーシブルシングルアウトリガーを使うことで、風向きにあわせて船の前後(アウトリガーの左右)を入れ替えることで対処するというシャンティング(shunting)を編み出した。 以上のような考え方は一つの推論であり、決定的な証拠があるわけではない。もともとカヌーは実用品かつ消耗品であり、劣化しても最後は木材として活用可能なことから、考古学的な意味での証拠がほぼ残らない。せめて絵が残っていればよいのだが、絵は平面であるため、片舷から描かれた絵を見てもそれがシングルアウトリガーなのかダブルアウトリガーなのか分からないといった資料的限界がある。
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