米国の参戦(1941~1945年)
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「中華民国空軍」の記事における「米国の参戦(1941~1945年)」の解説
こうした状況を打開するべく、シェンノートは米本国に戦闘支援の交渉に赴く。米国政府は対ナチス・ドイツ戦重視の観点から最初は中国支援に冷淡であったが、最終的にフランクリン・ルーズベルト大統領が動き、支持獲得に漕ぎ付けた。1941年3月のレンドリース法成立後にアメリカから供与されたP-40で日本陸海軍に挑んだ。また、シェンノートの手で同年8月に米陸軍航空隊出身者で義勇軍部隊「フライング・タイガース」が創設され、戦力を補った。 日本軍による真珠湾攻撃後、第二次世界大戦に正式に賛成した米国は日独と直接戦うとともに、中国への支援に本格的に乗り出した。フライング・タイガースに代わり、正規軍として第10航空隊第23戦闘機大隊(中華特遣隊)、中国航空機動部隊(CATF)が設立される。1943年3月には、蔣介石とシェンノートの要求で昆明に第14航空隊が設立。更に11月には中国空軍と第14航空隊との合同組織として中美混合空軍団(英語版)(CACW)が創設された。中国空軍は、新飛行士の育成や米国留学による再訓練で実力を回復させ、日本軍施設の空爆や連合軍の対地支援に大きな役割を果たした。 また、末期には、成都はB-29による日本本土空襲の拠点となった(八幡空襲など)。
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