その後の関係
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トスカニーニとNBC響との関係は概して良好だったが、17年の間に危機がなかったわけではない。 トスカニーニは楽団員のレベルが低いと考えた場合、情け容赦なく退団を命じた。また、リハーサル中不満があるとイタリア語で悪態をつき中断することもしばしばで、それは一種の恐怖政治だったことは間違いない。もっともこれはNBC響に対してのみでなく、スカラ座、ニューヨーク・フィルなどの前任地、また客演時も同様であった。 最大の危機は1941年から1942年のシーズンに訪れた。1940年冬頃、NBCに対する不信感を決定的にする出来事が起き、NBC側から辞任を促されたトスカニーニは1941年春にNBC響を辞任した。NBCは、レオポルド・ストコフスキーを常任に据えた。 トスカニーニがNBC響の何に不満だったのか、正確なところはわかっていない。契約上はトスカニーニが全権を掌握することになっていたにもかかわらず、面従腹背状態の親会社NBCの彼の意に反する人事、(客演指揮者による)コンサートを行ったためとの説、ヨーロッパでの戦乱がトスカニーニを不安に陥れていたためとの説などがある。 皮肉なことに、トスカニーニとNBC響を再び結びつけたのはこの戦争であった。1941年12月6日、米国の参戦直前に彼は「防衛国債(defence bonds)」購入を呼びかける財務省主催の慈善コンサートのため、(渋々)NBC響の指揮を行っている。そして米国参戦後には「客演指揮者」として大々的に復帰し、いつの間にか彼と交響楽団との関係は元に戻ったのである。1942年から1943年のシーズンからはストコフスキーと並んで常任指揮者の地位に復帰、ストコフスキーが去った1944年から1945年のシーズンからは再び単独の常任指揮者として君臨する。 この間、1942年にはショスタコーヴィチの交響曲第7番をどちらがアメリカ初演するかを巡って、ストコフスキーと激しく争っている。最終的にその栄誉はトスカニーニの手中に落ち、同年7月19日にそれはスタジオから全米、ならびに短波でヨーロッパに向けて放送された。 大戦終了後のトスカニーニは、再興なったスカラ座などヨーロッパへの客演も再開したが、活動の中心は常にNBC響であった。1950年4月からは、専用列車を仕立て2か月で22都市を巡る大々的な全米ツアーも挙行され、大成功している。
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