ジョン・F・ケネディとの友情の決裂
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「フランク・シナトラ」の記事における「ジョン・F・ケネディとの友情の決裂」の解説
しかしケネディ兄弟、特にジョンがマフィアと関係の深いシナトラと深い関係を築き、ジョンがシナトラの元恋人のキャンベルやモンローと不倫関係を持ったこと、さらに上記のようにジョンが大統領選挙の本選において、ジアンカーナなどシナトラと親しいマフィアからの選挙不正への関与を含む選挙支援を受けたこと、そしてその後の関係の決裂が、後にジョンの名声を大きく傷つけるだけでなく、下記のように暗殺の原因の一つとなっていった。 ジョンの大統領の任期1年目に入った1962年に入り、早くもシナトラとジアンカーナらのマフィアとの関係がマスコミなどで問題視され、さらにマフィアへの取り締まり方針を強めたFBIからもジョンとシナトラ、そしてキャンベルとジアンカーナの密接な関係について忠告を受けたこともあり、ケネディ政権の司法長官となったロバートがジョンとシナトラの関係を終結させるように画策した。 ジョンは、これを受けてパームスプリングスの「リトル・ホワイトハウス」と呼ばれた、ケネディを呼ぶことを前提に作られたシナトラ邸への訪問を直前になって断るなど、ロバートの言いつけを聞き、あからさまに恩人であるシナトラと距離を置いたために、シナトラが激怒し落胆した。さらに連邦議会の公聴会で追及を受けたジアンカーナもシナトラに対し「約束違反だ」と激怒した。 これ以降、ケネディ兄弟との関係が疎遠になっだけでなく、ジョンの側近となっていたローフォードを「シナトラ一家」から事実上追放することとなった。さらにシナトラは、ジョンとロバートの政敵で、しかも支持政党を変えて共和党のリチャード・ニクソンと密接な関係を結ぶまでになった。 また、ジョンの大統領当選に多大な貢献をしたはずのシナトラは、1963年11月にジョンが暗殺された際には「大きなショックを受けた」(娘のナンシー談)が、いずれにしてもロバートが仕切った葬儀には呼ばれなかった。
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