ジョン・C・C・メイヨー
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「ジョンソン郡 (ケンタッキー州)」の記事における「ジョン・C・C・メイヨー」の解説
南北戦争が終わると、トマス・ジェファーソン・メイヨーがペインツビルに移住してきて、天分と才能がある教師としての役割を果たした。メイヨーの子がジョン・C・C・メイヨーであり、東部ケンタッキー州の発展に重要な人物となった。郡民はメイヨーに関する記憶について賛否が分かれている。ペインツビル、ひいてはジョンソン郡の発展に寄与した貢献者だと言う者がいる。メイヨーは銀行、教会、公共事業、鉄道輸送を発展させた。一方でこの郡の莫大な石炭資源についてその石炭会社が大きな影響を直接与えた責任があり、そのためにこの地域が今日まで経済的に落ち込んだのだと言う者もいる。 石炭はジョンソン郡や東部ケンタッキー州にとって南北戦争前でも重要だったが、その発展は戦争の開始時点で止まってしまった。東部ケンタッキー州の石炭産業に資金が戻ってくるのが遅く、これがジョンソン郡の発展を阻害した。人々は部外者に懐疑的だった。学校の教師であるメイヨーは人に良く知られており、仲間の一人とみられた。メイヨーは石炭産業が東部ケンタッキー州の炭田や工業化された北部にしっかりとした地盤を築くために貢献し、それが地域に鉄道を引かせることになった。北部から移ってきたカーペットバッガーがこの地域でも見られるようになった。ジョンソン郡の多くの市民が誤った情報を与えられ、その土地の鉱業権を二束三文で売り払ったのはこの時期だった。ある場合には新しい猟銃と引き換えだった。また、幾つかの郡庁所在地で奇妙な火事が続いて、土地の権利証書が焼けてしまい、多くの人が土地を失ったのもこの時期であり、土地の強奪者が諦めようとしない所有者から土地を取り上げる道を作ってしまった。 1904年9月1日、チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道がペインツビルの駅まで開通した。これはローレンス郡まで鉄道を引くために25年間努力した後のことだった。この鉄道は寄付と株および債権、さらに地元、市、郡の民衆が懸命に働いて得られたものであることは注目すべきである。鉄道会社は情報を漏らし、たびたびルートの計画を変更して、入札競争を生み出し、それで資金を得ていたことは、歴史が示している。極端な例では、鉄道会社がサービスの条件として通行権と線路の所有権を保持していた。鉄道の発展に続いて、1910年までに何万トンもの石炭が東部ケンタッキー州から運び出された。 メイヨーは政治のロビー活動を行うようになり、民主党全国委員会では東部ケンタッキー州唯一のメンバーになった。ケンタッキー州知事、アメリカ合衆国下院議員の選出に影響力を持ち、民主党の大統領ウッドロウ・ウィルソンの当選にも影響力を行使した。メイヨーが東部ケンタッキー州で広大な鉱業権を急速に取得したことに対して、不正行為を働いたとして起訴されたときも、当選を助けた知事によって無罪になったのは、この政治的に深い結びつきがあったからだと考えられている。 メイヨーはヨーロッパに旅した後に病気になり、1914年5月11日に死んだ。その存命中にペインツビル市に歴史的な邸宅を建設しており、メイヨー・マンションと呼ばれるようになった。
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