その後の難波津
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:27 UTC 版)
上述のように、桓武天皇が長岡京遷都にあたって後期難波宮の建築物を収去してしまい、更に平安京遷都が行われると、首都と瀬戸内海航路を結ぶ舟運ルートの主力は、平安京との交通至便なより北側を通る淀川右岸や神崎川流域に移行することとなり、奈良盆地の外港として栄えた淀川左岸の難波津の意義は相対的に小さくなった。また、「難波(なには、なんば)」という地名自体は、上町台地北端のみではなく、あちこちに見られる一般的な地名でもある。このことから、平安時代には、上町台地北端部ではなく別の地域の港湾が「難波津」と呼ばれていたのではないか、更に飛躍して、そもそも古代以来の難波津は現在の大阪市とは別のところに比定されるはずだと主張する説もごく一部に存在するようである。
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